前回の投稿で、産経新聞の以下の記事

【人口戦】日本の少子化は「人災」だった(上)戦後ベビーブーム突如終焉(3/3ページ) – 産経ニュース https://www.sankei.com/article/20160220-URTIW6L76BI2FBQ3Y4N5XY7Y2Q/

(第1記事)

【人口戦】日本の少子化は「人災」だった(中)政府主導で「産むな殖やすな」 料理・編み物とセットで「計画出産」講習 – 産経ニュース https://www.sankei.com/article/20160220-MGORBDO25NIG3C53WNPHSQUUQ4/

(第2記事)

【人口戦】日本の少子化は「人災」だった(下)戦後70年、いまだGHQの呪縛 戦前は近隣諸国との出生率競争 – 産経ニュース https://www.sankei.com/article/20160221-OC5JOSZ4HVKLVJVJI6TA5BSOOE/

特に第1記事のファクトチェックを試みた。

繰り返しになるが、第1記事の論点は以下の通り。

(結論)日本の「少子化」は、GHQが仕掛けた堕胎・避妊による「産児制限」工作によるものである。日本政府もGHQや国際社会の圧力を受けて、「産児制限」政策を推進した。

①日本は、敗戦後復員や旧植民地からの引き揚げ者による人口急増により深刻な食糧難に直面した。そこにベビーブームが起こり、人口急増は深刻な社会問題として顕在化した。

②GHQの人口問題の専門家らは、戦後も「日本の人口増加に歯止めがかからなければ、将来、膨張主義が復活する。」と警告した。(根拠となる史料・引用元は示されていない)また、日本の開戦理由を「人口を養うに必要な資源獲得のための軍事力による領土拡張を擁護し、同時に、増加する人口を養うための彼らの帝国主事的政策を宣伝した。」と分析していたことがそれを裏付けている。(根拠となる史料:GHQ日本占領史第4巻人口 日本図書センター刊)

③マッカーサーは、米国の人口学者が「日本が産児制限政策にためらい、帝国主義への回帰を忘れられず、人口増加を目指している。」との報告書(記事には、報告書の詳細は触れられていない)をまとめたり、日本における産児制限の必要性を語ることを妨げなかった。(根拠となる史料・引用元は示されていない)

④GHQは日本の人口急増について無関心を装っていたが、1946年5月食糧メーデーが起こると、労働運動の広がりによる共産化への警戒から、態度を一変させて、産児制限を進めることとしたが、アメリカ本国のキリスト教団を中心に反対論も多く、人口抑制を日本政府に強制することは国際的非難を受けることから、日本人自身の手で産児制限を行わせることを目指した。

⑤その一環として、後に優生保護法制定の立役者となる戦前から産児制限運動に熱心に取り組んでいた加藤シズエ氏(1897~2001年)の衆議院選挙出馬を後押しした。

⑥日本政府は、占領下であったが、こうした産児制限を求める国会議員の要請を拒絶した。例えば、1945年12月15日貴族院本会議で芦田均厚生大臣は「一度出生率が減少傾向になった場合には、人口増加の傾向に回復することは困難である。人口が過剰であるからといって、すぐには政府が公然と産児制限を認めることは、慎重に考慮を要することだ。」と拒絶している。

⑦その後、クロフォード・サムズGHQ公衆衛生福祉局長が記者会見で産児制限を強く促したこともあり、1948年6月人工妊娠中絶を認める優生保護法が成立した。

⑧アメリカ人口学者らの見解は、主権回復を悲願としていた日本政府にとっては、人口膨張を抑制しないと国際社会への復帰は認められないのでないかとも疑念を生じさせることとなる。(根拠となる史料・引用元は示されていない)国内では、闇堕胎による女性の健康被害が社会問題したこともあり、時の吉田内閣は政府方針を転換し、1949年4月産児制限核を検討する人口問題審議会を設置し、これを受け同年6月経済的理由での人工妊娠中絶を認めた改正優生保護法が成立した。結果として、第1次ベビーブームは突如終焉した。

これに対して、第1記事が史料として提示している「GHQ日本占領史第4巻人口」や加藤シズエ氏の回顧録「ある女性政治家の半生」の内容を検討することで、第1記事の結論の前半である「日本の「少子化」は、GHQが仕掛けた堕胎・避妊による「産児制限」工作によるものである。」については、およそ史料の内容を無視した内容であったことが明らかになったと思う。むしろ、GHQやアメリカは、日本が戦争を引き起こした理由の分析(一部国粋主義者や軍国主義者による国家扇動)と日本の経済力のポテンシャル、アメリカ本国内の宗教的な世論、人道主義的・民主主義的な改革と救済、人口転換理論による政策遂行(死亡率を抑えることが一時的な人口爆発を引き起こしても長期的には出生率の低下につながること)という要因から、産児制限政策を日本が選択するかどうかについて完全な中立を貫いたことを明らかにしたのではないかと考えている。その延長線上に、加藤シズエ氏等の家族計画を推進した女性政治家たちは、確かにGHQから女性解放・民主化について意見をもとめられる存在であったが、産児制限を行うGHQのエージェントなどという言説は、誹謗中傷であるということも反証も提示したと思う。

ただ、前回の論証で明らかに明示しなかった③の論点について、第1記事においても根拠となる史料が明示されなかったので、明確に批判しなかったが

GHQ日本占領史第4巻人口で以下の部分を再度引用すると、

「1949年春,人口調査機関の勧告、専門家の意見の公表、そして人口コントロールに向けて政府の努力に刺激されて、産児制限反対論者の抗議が起きたとき、 最高司令官は連合国最高司令官の見解を再び強調した。人口顧問らが連合国最高司令官に対して行った産児制限を擁護する公の声明には、宗教家のグループの抗議を呼び起こした。その顧問たちの著名さと彼らが連合国最高司令官に所属していることのゆえに、その抗議者は、単に個人的意見として述べてきた顧問たちの見解を連合国最高司令官の政策を表明したものと誤って判断してしまったのである。

最高司令官はその抗議者への回答の中で、連合国最高司令官は日本の人口制限を研究しているのでも、あるいは考察しているのでもないと述べた。最高司令官は産児調節は連合軍の政策の範囲内にあるのではなく、また最高司令官の責任または権限のうちにあるのでもない、と述べた。連合国最高司令官に所属している彼らが公けに述べた声明は単に個人的意見を反映しているにすぎないのであって、占領当局の考えかたあるいは見解に基づいたものではなかった。

GHQに所属する人口問題顧問の産児制限の提言を「個人的見解」と慌てて否定したのは、宗教的理由やマッカーサーが大統領選に名乗りを上げるという個人的理由も含めて考慮すると死活的だったのであり、GHQは組織として日本に人口抑制政策を押し付けることはできなかったは明らかだ。一方、第1記事ではGHQがこうした言論が広報されることを妨げなかったと論難しているが、民主主義国家において、国家権力機関が本国の自由な言論を抑圧していいものなのか?民主的な言論はどうあるべきかという見識を論者に尋ねてみたい気になる。Looker-onには、第1記事のこの点はいいがかかりに近い論のように思える。

さて、第2記事である。

同様に、この記事の論点を時系列順に整理してみると

①占領期、GHQの人口抑制工作により、日本に訪れたのは、人工妊娠中絶ブームだった。その勢いはすさまじく、出生数激減に反比例するように増え続けた。中絶の届け出件数は昭和24(1949)年の10万1601件が、翌年には32万150件と3倍増となり、28年には100万件を突破した。「民族の滅亡」という政府首脳の懸念をよそに、多くの国民は産児制限に強い関心と期待を寄せていたのである。当時の中絶数と出生数を足し算すると、第1次ベビーブームの最終年となった24年の279万8239に対し、28年は290万を超え、むしろ増えていたのだ。

②吉田茂内閣は1949年に産児制限を受け入れ、国民の要望に応えようと、普及に大きくかじを切った。それ以降、終戦直後のように産児制限を「民族の滅亡」と懸念した声は次第に聞かれなくなった。

③政府は、1949年~1956年7年間国立公衆衛生院による「計画出産モデル村」事業を行い、子宝思想が根強く残っていた農村部において、日本人に適した避妊方法を探し、中絶をどれくらい減らせられるかを調査し、専門家が頻繁に現地に出向いて、地元の保健師などと連携して計画出産と受胎調節の指導を行った。

④政府は、1952年優生保護法の再改正で受胎調節実地指導員制度が発足すると、優生保護相談所を中心に各地で宣伝普及活動が進められた。産児制限はやがて「家族計画」と言い換えられ、GHQによって始められた生活改善運動に乗って地域ぐるみの取り組みに発展していった。家族計画は、受胎調節の技術指導を行うだけでなく、生活水準の向上や母体保護の知識普及、子供の教育など幅広い意味の中で使われたのである。

⑤吉田内閣の草葉隆圓厚相は1954年10月5日、「政府としてはこれまでは母体保護の見地から指導してきたが、今後は人口抑制の見地に立ってさらに強力に普及推進したい」と厚生省の会議で日本政府が産児制限を人口抑制策として推進する方針を明確に打ち出した。これは、「人口抑制策としての産児制限」という目的を、日本政府が受け入れたことを意味した。

⑥1954 年に新生活運動(=国民生活の改善、向上をめざした国民運動 註:鳩山一郎内閣が公約に掲げ、1956年「財団法人新生活運動協会」が設立され展開された)が企業にも広がり、厚生省人口問題研究会の関与のもと(学識経験者のなかでは、永井亨(当時、人口問題研究会会長、企業体等新生活運動協会会長)と古屋芳雄(当時、公衆衛生院長、日本家族計画連盟会長)がとりわけ熱心に取り組んだ。)保健師らが従業員の妻を集めて指導を行った。企業側には、計画出産によって家庭の負担が減れば夫が仕事に専念できて生産性は向上し、医療費や家族手当などの負担軽減になるとの思惑があった。社員や妻の抵抗感を和らげるため、受胎調節の指導は「新生活運動」と呼ばれ、栄養料理の作り方や洋裁・編み物、家計簿の付け方、電気器具の取り扱い、美容体操や子供のしつけなど多彩な講習会とセットで実施された。

⑦『昭和33年版厚生白書』では、産児制限を取り上げ「われわれが健康にして文化的な生活を営むためには、自らの手で家族設計すなわち適当な家族構成を考えて行くことが必要となる」と記している。当時の日本人に避妊知識が十分に浸透しておらず、産児制限とは人工妊娠中絶のことであると誤解している人が多かったため、白書では「単に子供の数を減らすということではなく、現在と将来を考え、適当な時期に適当な数の子供を生む自主的な計画をいうのであるが、このような家族計画を実施するための手段が受胎調節なのである」との説明を設けた。

⑧以上のように、国を挙げて「産むな殖やすな」という少子化推進運動を展開した結果、1957年には10人の子供が生まれてくる間に7人の胎児は中絶されるという異常事態となった。これには、政府も動揺を隠せなかったが、「出産はコントロールできるもの」であることを知った国民の価値観を変えることはできなかった。

どの要点も、第1記事に比べて、出典となる史料が明示されていない一方で、非常に断定的に述べられていて、事実であったように記載されている。これらの要点を通じて、述べられているのは、日本政府は、GHQのこれまでの圧力やGHQの意向を受けた女性政治家、国民の世論に屈して、「生むな、殖やすな」という少子化推進、産児制限を国策として推進したという歴史である。これらの事実を検証していこう。

1948年7月に優生保護法が成立し、政府の公式統計として人工妊娠中絶件数について1955年(昭和30年)より統計がとられている。(https://www.e-stat.go.jp/index.php/dbview?sid=0004026934)また、厚生労働省、昨今ではこども家庭庁より年齢別(特に10代に焦点をあてた)統計が発表されている。第2記事では、「昭和32年(1957年)には10人の子供が生まれてくる間に7人の胎児は中絶されるという異常事態となった」としているが、恐らくこのような計算をしていると思われる。

*人工妊娠中絶の推移についてデータをダウンロードできるようにしておくので、参考にしてください。

1957年 人工妊娠中絶数数 1,122,316人

1957年 出生数 1,566,713人

1,122,316人÷1,566,713人=0.716…≒72%

と計算して算出したと推定される。賢明な読者ならわかると思うが、この計算は正確ではない。出生数全体は、「出生数」(無事生まれてきた子ども)+「人工妊娠中絶数」(人工妊娠中絶で死産した子ども)+「中絶しなったけれど死産した子ども」となるからだ。最低でも、出生数+人工妊娠中絶数で、人工妊娠中絶数を割らないと正確な比率は出ない。

1,122,316人÷(1,122,316人+1,566,713人)=0.4173…≒42%(死産を入れると当然分母が大きくなるのでさらに減る)

10人子供が生まれてくる間に間引きされた胎児は4人以下というのが正しいと思われる。第2記事の7割は政府が「人口戦」に押し切られて危機に瀕したと過大に印象付けてしまう危険性が潜んでいる。

*以前の投稿で、この時期の出生は6割が抑制されていたという論文を紹介したことを考えれば、この数値は妥当性のある数字であるように思われる。

史実をさかのぼっていこう。第2記事では⑤にあるように草葉厚相の「厚生省の会議」発言を引き、政府は「人口抑制策としての産児制限」方針に転換したとしている。Looker-onはインターネットに公開されている厚生省資料を漁ったが、この省内の会議について確認することができなかった。(何方かご教授願いたい)

最終的に、

社団法人日本家族計画協会が発行する機関紙「家族と健康」第600号(https://www.jfpa.or.jp/wp-content/uploads/2024/12/kk-bn-600.pdf   2004年6月25日号)の機関紙第600号記念座談会「日本家族計画協会50年のあゆみ」において、運動の当事者の方々が、証言を残している。

対談者に松本清一会長、近秦男理事長、原澤勇専務理事という日本家族計画協会の第一人者たちで運動史について語っている。その中の「理念の統一を図るために研究委員会」の章で

「近:その当時、家族計画の理念に関しては厚生省にブレがあった。昭和26年の受胎調節指導の閣議決定で、橋本龍伍厚生大臣(橋本龍太郎総理大臣の父親)は人工妊娠中絶の障害について、「自分は人口政策が嫌いだ。母子保健であればこれに取り組む」と言って、優生保護法の改正につなげた。ところが、昭和29年の草葉厚生大臣は、全国の担当者部長会議の席上、「家族計画は日本の人口にとって大変重要なので、各県は人口問題として家族計画を行うように」と訓示した。

人口問題からの家族計画と、母子保健の面からの家族計画が厚生省内で錯綜した。 そこで国井さんは「運動として、事業として進めていくには、理念を統一しなければならない」と、樋上さんらと話し合って、家族計画理念をしっかり定めるための家族計画研究委員会を普及会の中に作ることにした。

最初のメンバーは、厚生省から中原龍之介技官補佐と樋上事務官補佐、神奈川県の高口保明予防課長、公衆衛生院から久保秀史部長、村松稔室長。東京都は広瀬克已優生課長。そして杉並西保健所の奈良林祥係長。まもなく公衆衛生院の萩野博、人口問題研究所の篠崎信男、青木尚雄の各氏も参加した。

会は毎月1回行われ、後に会場になった料理店の名前をつけて「春日亭会談」と言われ、夜遅くまで熱のこもった議論が交わされた。この委員会では家族計画について、「人口抑制は大事なことではあるが、それは結論であって、あくまで家族計画は母親と子供の幸せ、健康のために行うべきだ」と。さらに「産む産まないの自由はどこまでも個人にある」との結論に達した。」

確かに、昭和29年(1954年)草葉隆圓厚相の「人口問題としての家族計画」という産児制限への路線転換を促す担当部局長会議発言はあったが、結局「母体保護」「産む自由」の保証という理念に統一が進み、日本政府が「人口抑制策としての産児制限」へ転換したという事実は確認されない。むしろ、1954年以前において、厚生省内で人口問題か母体保護かという曖昧性はあったが、政権中枢では母体保護派が占めていたこともこの証言で確認されるだろう。

その母体保護を理念とした家族計画も、高度経済成長期に

「近:家族計画運動には一つの節目の時期があった。池田内閣が昭和35年に発足して所得倍増計画を打ち出すと、地方に工場が移転し、また農村の人口が都市に移動し、過密過疎が起こった。労働力としての中学卒が金の卵と言われた。経済界からは労働力が減っているのに、まだ家族計画を政府は進めているのかと圧力がかかってきた昭和40年頃のことである。

 こうして、家族計画に対する中央の熱は冷めていく。・・・」

と高度経済成長期に労働力不足にひっ迫する経済的な要請から産児制限は政府の政策目標から忘れられていくのである。

さらにさかのぼろう。

次は、1950年9月から国立公衆衛生院により行われた「計画出産モデル村」事業である。多子出産が常態化し、人工妊娠中絶も多い農村部の現実に対して、モデル村落を選出し、計画出産とそれに伴う受胎調節を地元の保健婦と連携して行うことで、モニタリングを行うモデル事業である。第2記事やSNSで「計画出産モデル村」事業をもって、政府が人口抑制政策を推進した例証としているものがいくつか確認される。

史料を検索していくと、以下のような史料が見つかった。

「計画出産モデル村の研究(第2報)」(古屋 芳雄著 共同作業者:久保 秀史, 安方 魁人, 寺村 倫子, 村松 稔, 荻野 博)(日本人口学会紀要第1巻1952年8月25日刊に所収)(https://www.jstage.jst.go.jp/article/apaj/1/0/1_KJ00009388182/_article/-char/ja/)  

論文は、以下のURLで見ることができる。(https://www.jstage.jst.go.jp/article/apaj/1/0/1_KJ00009388182/_pdf/-char/ja

長文であるが、1(緒論)を全文引用しよう。

「われわれは昭和25年9月以来山梨県及神奈川県の 3つの 農村で 所謂計画出産と 受胎調節に 関 する指導を行つてきたが今やその第2回目の報告を行うことが出来るようになつた。

私はこゝ にその大要を紹介するつもりであるが、たゞその前に 政府がこの運動を取上げている立場と目標とを紹介して置くことが必要であると思う。なぜならそれは今後全国的に展開するであろうところのこの邇動の帰趨を左右する重要な意義を有つからである。また従来モデル村の研究を通じて政府に種々の資料を提供してきた私たちとしてもそれには無関心ではありえない。政府が最近この蓮動を強力に取上げたのは我が国の激増する人工妊娠中絶とこれに伴う母体の健康障害の除去ということにあつたことは今日では既に一般にも知れている「人口制限」を目標とするものではないのである。

 政府がなに故に国策的見地から人口制限の目標をかかげることを好まないかは、巷間諸種の説をなすものがあるが真意は私にも分らない。ただ私はこれを 極めて 善意に解して次の如く見ている。 「人 口制限」の標語たるや甚だ消極的で, 苟くも国家がその標識として掲げるにふさわしいものではない。 なぜなら現在こそわれらは過剩人口に悩んでをり,人口制限の必要を切実に感じているが,これはいつの時代にも通ずる真理ではなく, 我が国が再び経済的に立直り, 充分の余裕をもつ時代となるならば,ふたゝび人口増加政策を構じても少しもおかしくないからである。 とまれ橋本前厚生大臣が受胎調節の普及蓮動に乘出したのは以上述べたような立場からであつたことは確かである。 現に私は彼が閣議にあの案文を呈出する前後度々呼び出され相談にもあずかつたのであるが, 彼は其時繰返し繰返しこれが人口制限を目途とする国策的立場からでないことを読き、世上の誤解なきよう指導すべきことを求めたのである。 さて閣議の承認の與えられたのは昭和 26 年 10月 26 日(注)であつ たが,その後この蓮動は甚だ円滑に進みはじめた。即ち厚生省はその閣議諒解事項に基いて「受胎調節普及要領」を決定し ,またその線に添うてこの方面では初めてといえる二千数百万円の予算の獲得にも成功したのである。

 この予算は今や地方に流れつゝ ある。 地方は またこれを呼び水として夫々相当額の予算を計上しつゝ  ある。 かくて我国の受胎調節運動は今や决河の勢いで全国に及びつゝ あるといつても過言であるまい。

 然しながらこの燎原の火の如く拡がる受胎調節運動なるものを,われわれはたゞ座視していていいであろうか。 正直にいつて私はやゝ 心配である。 なぜなら受胎調篩そのものは一つの 手技(テクニック)に過ぎず,それ自身善いことでも惡いことでもない。従つて国民を何等かの幸福に導く趣旨はこの言葉の概念の中には含まれていないからである。 いな,それどころか,若し受胎調節が社会の遺伝生物学的にみて最も優秀なる階層にのみ普及し,然らざる方面に一向に行き渡らないとすれば,民族の平均素質の低下は免れないことになる。私はこの意昧に於て政府に対し受胎調節運動は決して自然の進行にまかすべきものでなく, 指導の対象を重点的に考うべきこと, 従つてその方法 (例えば薬品の安価なる供給等)に大いなる考慮を払うべきことを進言している。これは都市に於て特に要望される。

序でながら人工妊娠中絶は逆淘汰の進行を強力に助けるものである。なぜならこれに対しては重点指導は全とく不可能だからである。 何れにしても政府は何等の文化的意味をもたず, かつ卑俗な響きをもつこの 「受胎調節普及」云々の標語を急ぎ取やめ, 「家族計画」或は 「国民の資質改善」を意味する何等かの標語に取か えることが望ましい。

以上いさゝか余談に入つたようであるが, 前にも述べたようにこれは私たちの研究にも重大な関係がある。 というのは私たちの所謂「モデル村」なるものは,どこまでも 「計画家族のモデル村」であつて, たゞ「受胎調節の 強力実行村」という意味ではないからである。」(P1-2)

(注)昭和 26 年 10月 26 日閣議決定とは、「受胎調節普及に関する方策について」

https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00ta0071&dataType=1&pageNo=1)を指す。政府としては、人工妊娠中絶の著しい増加に懸念を持ち、受胎調整(避妊等)を推進することを決定した閣議決定を意味している。

「計画出産モデル村」事業の内実は、1950年9月から山梨県及び神奈川県の3つの農村で計画出産と受胎調節に関する指導を内容とするもので、本論文の目的は、そのモニタリングを踏まえて、1951年から本格的に受胎調整について国家予算化したものである。第2論文は、1950年と選好していた事業であるにもかかわらず、昭和33年度厚生白書(1958-59年)の後に記述するという時系列を無視した記述を行っている。

戦前から「民族衛生学」という優生学の権威であった古谷芳雄氏らしく、結論部に、個人的意見として、「受胎調節が社会の遺伝生物学的にみて最も優秀なる階層にのみ普及し,然らざる方面に一向に行き渡らないとすれば,民族の平均素質の低下は免れない」「人工妊娠中絶は逆淘汰の進行を強力に助けるものである。なぜならこれに対しては重点指導は全く不可能だからである。」と優生学的視点から、人工妊娠中絶を否定し、受胎調節にしても全国民がその恩恵や参加をしなければならないと論を展開しているが、総じて、「モデル村」事業時代においても、政府の方針としては産児制限を採用していないことを語っているのだ。

以上により、終戦直後から、日本政府は一貫して頑なに国策として人口制限即ち産児制限方針を掲げなかったことが明らかになったと思う。GHQの中立政策も、政府の立場を補完支援する役割を果たしていたのだ。

国会答弁において、代表的な答弁を引用しよう。

1945年12月15日 貴族院本会議

芦田均厚生大臣答弁

「(秋田三一議員の人口制限政策を政府は採用するのか否かの質問に対して)御答へ致します、現在人口調節の方策として産兒制限を認める意思があるかないかと云ふ御質問であります、御承知の通りに、産兒制限は理窟としては極めて理解し易いものでありまして、人心に受入れられることも極めて容易に且迅速に流れる虞れがあると思ひます、一度出生率が減少する傾向になつた場合には、如何なる民族でも之を人口増加の傾向に囘復することが困難である事實は、既に「フランス」、「スエーデン」、「デンマーク」、「イギリス」等の例に依つて御承知の通りであります、從つて今日の時代、人口が過剰であるからと言つて直ぐに政府が公然と産兒制限を認めることは、愼重に考慮を要することと存じます、更にもう一つの點は産兒制限を行ふと致しましても、兎角逆淘汰の現象が行はれ易いと云ふ點であります、具體的に申しまするならば、精神缺陷者の如き、或は精神病患者の如き、斯樣な人々は容易に産兒制限を實行致しませぬ、其の結果惡質なる者の子孫が増加して、良質なる子孫が減退すると云ふ現象を起しましては、國家の將來に由々しき問題であると考へられる點であります、成る程現在失業問題が我々の惱みとなつて居り、又食糧難も痛切に感じられて居りますが、失業問題竝に食糧難の對策として、産兒制限が果して有效であるかどうか考へますると、今生れたばかりの子供は、一年、二年の間多量の食糧を必要としないのであります、又一年、二年の生れたばかりの子供に對しては、失業對策を講ずる必要もないのでありまして、産兒制限の結果が直ちに失業問題の對策、若しくは食糧難の對策に多く寄與する所がないやうにも考へられるのであります、是等の理由に依りまして、現在の處、政府は産兒制限を公然と認めることを考へて居ない譯であります。

1948年6月15日 衆議院予算委員会

産児制限の実施について追及する加藤シズエ議員の質問に対する答弁

芦田均内閣総理大臣答弁

「産兒制限の問題についての御質問に対しては、各國の政府の施策としては、優生学的の見地から、ある種の人間に対して断種を命じて、法律的に人口の増殖を防いでおるという例は見るのでありますが、概括的な産兒制限の法律をもつている國はきわめて少いのであります。現に人口の増加率が欧米諸國を通じて次第に減少しつつある現象は、すでに御承知の通りであります。その人口の減少は、必ずしも産兒制限法というごとき立法手段によつて行われたのではなかつたのであります。経済的に、あるいは思想的に、種々の原因かと現実に人口の増加率が次第に減少しているというふうに私どもは見ておるのであります。しからばわが國人口増加の前途はどうであるかという問題を考えるときに、やはり專門家の意見によれば、わが國の人口増加はあまり遠くない時期において停止する、場合によつては人口は次第に減少する時期にはいるであろうということが有力な意見であると考えておるのであります。もちろん政府といたしましては、この際わが國の人口が著しく増加することは、前途種々の問題を惹起するおそれがあることは了解いたしますけれども、この際法律をもつて特に産兒の制限を行うごときことは考えていないのであります。また今日以後法律をもつて産兒制限を行つても、その効果の現われるのは、おそらく五年、十年以後のことである。われわれの当面しておる眼前の事態をこれによつて救済することは、かなり困難ではないか、かように考えておる次第であります。  なお移民の問題につきましては、中崎君の御説の通り、今後平和條約成立以後において、わが國民が平和的な、文化的な人間として、人口稀薄の土地、労働力の不足をつげておる地方に出ていくということは、きわめて好ましいことでありまして、かような方向に極力盡力をいたしたいと考えております。しかし今日はまだこれを現実に取上げて、諸外國と話合いをなし得る立場にはなつていないのであります。しかし大体の方向として、日本人に対する外國の信頼は、次第に回復しつつあるということは、現に北米合衆國においても、從來対日移民法と稱する日本人の入國禁止に関する法律を、主義上は一應廃止すべきであるというごとき運動も行われておるのであります。また南米諸國においては、非公式に民間の人々に対して、日本移民を至急送つてもらいたいというごとき意味の書面もまいつておるのであります。平和條約が成立した曉には、日本移民を歓迎する諸國と、一日も早く話合いを始めて、われわれの目標としておる海外移住の自由を、一日も速やかに取返したい、かように考えておる次第であります。」

「産兒制限につきましては、加藤君は多年の蘊蓄をもつておられます。卒直に申し上げますれば、私などよりもはるかによく御研究になつた方でありますから、御意見のほどは十分尊重いたすべきだありますが、ただいま私が中崎君に答えましたことは、優生学的な見地から立案さたれる法律は、すでに政府においてもしばしば研究され、一部すでに実行いたされておるのであります。この方面の立法はなるべく速やかに実現されることを期待いたしております。しかしながら、わが國民の程度に文化の進歩したる國においては、経済的の環境その他の事情を考慮して、國民が自発的に産兒制限の問題については相当の関心を抱いておる。しからばこの問題は國民の良識に訴えて適当にこれを行うことが、今日においてはむしろいいのであつて、ただちに政府が法律をもつて産兒制限の手段を講ずることが時宜に適するかどうか、いわんや人口問題を研究する專門の学者の意見によれば、おそらくは今後二十年くらいの後には、わが國の人口増加は停止状態にはいる、それ以後は現状のままに推移するならば、日本は人口の減少期にはいるのだ、こういう意見が出ておるのでありまして、この意見が絶対に正確であるかどうかということは、私個人として保証し得る限りではありませんが、少くとも人口総計の趨勢は、かような傾向にあるという今日でありますから、ただいますぐに法律をもつて産兒制限を行う意向はもつていない。かようにお答えをいたしたのであります。しかしながら、法律をもつてこれを実行しないということが、ただちに産兒制限が國内に行われないということでもあるまい。かように考えておる次第であります。」

はからずも両方とも芦田氏の答弁であるが、3年の間があるのもかかわらず答弁の論理は一貫している。48年答弁において新しいのは、専門家の人口分析について述べている部分である。

戦前の日本は、「食料問題や失業問題を背景として過剰人口への関心が高まると同時に、人的資源の確保という観点からも人口問題が注目を集め」たため、昭和14(1939)年8月、人口問題にかかわる国立の研究所としては世界最初の研究所として、人口問題研究所を設立した。「一方、日本の社会保障制度は、昭和30年代の半ばに医療と年金の国民皆保険制度が確立され、着実に発展してきましたが、社会保障を基礎的・総合的に研究する体制は未整備にとどまっていたことから、 社会保障制度審議会の勧告に基づいて、昭和40(1965)年1月、社会保障研究所が設立されました。

 継続する少子・高齢化や経済成長の鈍化により、人口と社会保障との関連は以前にも増して密接となり、両者の相互関係を総合的に解明することが必要となってきたこと、 また、時代に応じた厚生科学研究の体制を整備するため、厚生省試験研究機関の再編成を検討すると同時に、特殊法人の整理合理化という社会的要請を受けて、 平成8(1996)年12月、厚生省人口問題研究所と特殊法人社会保障研究所との統合により、国立社会保障・人口問題研究所が設立されました。」(国立社会保障・人口問題研究所HPより)

芦田均氏が繰り返し述べている専門家の見解とは、国立研究所である人口問題研究所において分析された将来人口推計を指していると推測することが理にかなっている。国立社会保障・人口問題研究所HPにある刊行物コンテンツの中に「人口問題研究」のバックナンバーが戦前からすべて掲載され、論文すべてが閲覧及びダウンロードできるようになっているのだ。

「将来人口の計算に就て」人口問題研究第1巻第2号巻頭論文(1940年5月刊)(https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14143701.pdf)を紹介する。

論文では、先行研究を検討して、二つの想定条件で人口推計を行っている。

第1仮定は

昭和60年(1985年)に至る各年出生率及び死亡率を昭和12年(1937年)の年齢別女子の出生率及び第6回生命表により計算した男女各年齢死亡頻度(死亡率)を固定して、昭和60年まで計算している。

第2仮定は

大正14年から昭和5年、昭和5年から昭和12年2つの期間で確認された出生率の減少割合の平均をとり、15-19歳は5年ごとに30%、20-24歳5年ごとに13%、25-29歳5年ごとに3%、30-35歳5年ごとに5%、35-39歳5年ごと7%40-44歳6%、45-49歳5年ごとに3%の割合でそれぞれ減少と想定。死亡率は0歳5年ごと20%、1-44歳5年ごとに10%、45歳以上5%で減少するも、死亡率の減少は30年後は一定にするという、当時の統計から、各年齢層にそれぞれ出生率・死亡率の変数を割付て変化させ、昭和100年(2025年)まで計算している。

この仮定は、出生率は女性の社会進出の度合い等で低下していくという現実と医学等の進歩で死亡率が低下していくという社会発展を考慮に入れた仮定であることを意味している。

論文に記載されている膨大な推計値と人口確定値を編集した表をダウンロードできるようにしておいたので、興味ある人は確認してほしい。

さて、第二仮定による人口ピラミッドの推移図を見てみよう。

我々が少子高齢化社会で見慣れている形になりかかっているのが分かるであろう。

第2仮定による男女数と実際の10年刻みの人口数とを比較し、誤差を計算してみると、誤差平均は総人口で男性2.81%女性2.81%総数3.40%、日本人人口で男性2.94%女性3.55%総数2.81%という極めて誤差の少ない結果が出た。

*誤差(%)=|第2仮定計算値―総人口数(もしくは日本人人口数)の確定値|÷総人口数(もしくは日本人人口数)の確定値×100

2025年人口は、第2仮定では、男性55,539,418人女性56,237,348人合計111,776,766人 

総人口確定値 男性59,952,000人女性63,251,000人合計123,203,000人 

日本人人口確定値 男性57,955,000人女性61,361,000人合計119,316,000人

推計値は、実際の人口値よりも少ないので、誤差の制度とも相まって、すでに80年前から専門家の中では人口の変化が芦田氏の国会答弁のようにイメージがついていたと言えるだろう。少子高齢化社会、人口減社会に転換していくことは予想されていたのである。

*第1仮定・第2仮定推計値と総人口・日本人人口確定値の比較表をダウンロードできるようにしてあるので、参考にしてください。

以上、第2記事の様々な論点を検証してきた。前回の投稿と今回の投稿で、少子化がGHQの陰謀でもなく、国内外の圧力に屈服し産児制限を推進した戦後の日本政府でもないことを史料を発掘することで示したと思う。どの論点も裏付けがないばかりか、歴史の実相を正しく伝えていないことが明らかになったのではないだろうか?ここまでの論証は、消去法だ。では、歴史的に何が少子化を引き起こしたのか?また、陰謀論まがいの物語は何故生まれ、影響力を持っているのか?次回の投稿で、第2記事の残った論点の整理も含めて、明らかにしていきたいと思う。

入所施設、児童虐待、少子化をつなぐもの⑯「少子化」はいつから問題なのか。(序論)

入所施設、児童虐待、少子化をつなぐもの1次ベビーブームは何故3年で終焉したか?

入所施設、児童虐待、少子化をつなぐもの⑱-1GHQは本当に人口制限、産児制限を推進したのか(ファクトチェック)

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