「障害者支援施設を考える」シリーズに取り組み始めたのが、昨年12月。仕事に紛れ、なかなか本題に進まない。前回予備作業で、インテルメッツオを書いたが、今回は大きく1周回って本編に係ることになりそうなテーマを扱うことになる。久々の「入所施設、児童虐待、少子化をつなぐもの」シリーズで、少子化をめぐる言説について、ファクトチェックを試みてみようと思う。
我が国の出生率は予想よりもさらに落ち込み、政府の対策が効果を発していないかのように思われる。最近こうした少子化の背景に、このブログで第1次ベビーブームが3年で終結してしまったことを指摘したが、SNSやYouTubeにおいても、この点が原因であることを主張するものが見受けられる。大手新聞でも第1次ベビーブームが3年程度で終わったことについて解説する記事が見受けられるが、その論説展開となると、「政府が終戦直後から人口抑制政策を推進してきた」、さらには、「GHQが日本民族の力を長期的に削いでいくために、「人口戦」として当時の政府に人口抑制政策を推進するよう圧力をかけたり、女性政治家等を懐柔したりして、人口抑制政策を内側から浸透させていった」といった陰謀論まがいの言説が流布させるに至っている。
本投稿で扱うテーマは論点が入り組み多岐にわたるので、結論めいたものを先に掲げると、以下の通りになる。
| この投稿では、 GHQは上記にあるような日本民族の国力を削ぐために人口抑制政策を強要したことはない。 第1次ベビーブームが3年間で終結した等少子化の始まりをGHQの陰謀にする論説を支持する事実はない。 一次資料に基づく史料検証を行うと、陰謀論的な史観は成立する根拠は極めて乏しい。むしろ史料の一部を切り取った印象操作をしていると言っていい部分がある。 以上3点を明らかにしている。 |
さて、代表的な新聞論説は、産経新聞に掲載された以下の3本の記事である。
【人口戦】日本の少子化は「人災」だった(上)戦後ベビーブーム突如終焉(3/3ページ) – 産経ニュース https://www.sankei.com/article/20160220-URTIW6L76BI2FBQ3Y4N5XY7Y2Q/
(以下、第1記事と記す)
【人口戦】日本の少子化は「人災」だった(中)政府主導で「産むな殖やすな」 料理・編み物とセットで「計画出産」講習 – 産経ニュース https://www.sankei.com/article/20160220-MGORBDO25NIG3C53WNPHSQUUQ4/
(以下、第2記事と記す)
【人口戦】日本の少子化は「人災」だった(下)戦後70年、いまだGHQの呪縛 戦前は近隣諸国との出生率競争 – 産経ニュース https://www.sankei.com/article/20160221-OC5JOSZ4HVKLVJVJI6TA5BSOOE/
(以下、第3記事と記す)
2016年2月に産経新聞に掲載された記事がいまだにリンク切れを起こさずネットで見ることができるので、産経新聞側も自信をもって警鐘を鳴らした記事なのだろう。
第1次ベビーブームが海外の多くの国と異なり、3年で終焉したことについて、根拠となる史料も例示して、第1記事を整理すると以下のようになる。
(結論)日本の「少子化」は、GHQが仕掛けた堕胎・避妊による「産児制限」工作によるものである。日本政府もGHQや国際社会の圧力を受けて、「産児制限」政策を推進した。
①日本は、敗戦後復員や旧植民地からの引き揚げ者による人口急増により深刻な食糧難に直面した。そこにベビーブームが起こり、人口急増は深刻な社会問題として顕在化した。
②GHQの人口問題の専門家らは、戦後も「日本の人口増加に歯止めがかからなければ、将来、膨張主義が復活する。」と警告した。(根拠となる史料・引用元は示されていない)また、日本の開戦理由を「人口を養うに必要な資源獲得のための軍事力による領土拡張を擁護し、同時に、増加する人口を養うための彼らの帝国主事的政策を宣伝した。」と分析していたことがそれを裏付けている。(根拠となる史料:GHQ日本占領史第4巻人口 日本図書センター刊)
*「GHQ日本占領史」は、『日本占領GHQ正史』全55巻の復刻編集版である。『日本占領GHQ正史』は1951年日本占領の直接実行者であった連合国最高司令部(GHQ)が自らの占領記録を座下の民問史料局(CHS)の手で編纂させた日本占領史の復刻である。オリジナルは米国国立公文書館が所蔵するマイクロフィルムGHQ/SCAP,HISTORY OF THE NONMILITARY ACTIVITIES OF THE OCCUPATION OF JAPAN,1945‐1951(日本占領の非軍事活動史)で,編纂当初は全巻「部外秘」扱いとされ,1965年一部を除いて公開,1971年全面公開されたもの。GHQの施策を知る第1級史料と言える。
③マッカーサーは、米国の人口学者が「日本が産児制限政策にためらい、帝国主義への回帰を忘れられず、人口増加を目指している。」との報告書(記事には、報告書の詳細は触れられていない)をまとめたり、日本における産児制限の必要性を語ることを妨げなかった。(根拠となる史料・引用元は示されていない)
④GHQは日本の人口急増について無関心を装っていたが、1946年5月食糧メーデーが起こると、労働運動の広がりによる共産化への警戒から、態度を一変させて、産児制限を進めることとしたが、アメリカ本国のキリスト教団を中心に反対論も多く、人口抑制を日本政府に強制することは国際的非難を受けることから、日本人自身の手で産児制限を行わせることを目指した。
⑤その一環として、後に優生保護法制定の立役者となる戦前から産児制限運動に熱心に取り組んでいた加藤シズエ氏(1897~2001年)の衆議院選挙出馬を後押しした。
⑥日本政府は、占領下であったが、こうした産児制限を求める国会議員の要請を拒絶した。例えば、1945年12月15日貴族院本会議で芦田均厚生大臣は「一度出生率が減少傾向になった場合には、人口増加の傾向に回復することは困難である。人口が過剰であるからといって、すぐには政府が公然と産児制限を認めることは、慎重に考慮を要することだ。」と拒絶している。
⑦その後、クロフォード・サムズGHQ公衆衛生福祉局長が記者会見で産児制限を強く促したこともあり、1948年6月人工妊娠中絶を認める優生保護法が成立した。
⑧アメリカ人口学者らの見解は、主権回復を悲願としていた日本政府にとっては、人口膨張を抑制しないと国際社会への復帰は認められないのでないかとも疑念を生じさせることとなる。(根拠となる史料・引用元は示されていない)国内では、闇堕胎による女性の健康被害が社会問題したこともあり、時の吉田内閣は政府方針を転換し、1949年4月産児制限核を検討する人口問題審議会を設置し、これを受け同年6月経済的理由での人工妊娠中絶を認めた改正優生保護法が成立した。結果として、第1次ベビーブームは突如終焉した。
この主張や論証について、論者が根拠としている史料を検証しながら、真偽を確認していこう。
先ず、論者は先の大戦を戦前から膨張する日本の人口問題を解決するために引き起こされたという見解をGHQは持っていたと紹介しているが、実際はどうであろうか?
先ずは、GHQの人口問題に対する認識やスタンスが論者の言う通りなのかを整理してみよう。
- GHQの戦争の要因分析及び占領戦略
論者が引用している「「人口を養うに必要な資源獲得のための軍事力による領土拡張を擁護し、同時に、増加する人口を養うための彼らの帝国主事的政策を宣伝した。」という一節は、実際、GHQ日本占領史第4巻人口P38に存在している。全体を引用してみると、GHQが戦争の原因をどのように分析しているか興味深い。
「基礎を固めた経済システム、日清・日露戦争によって獲得した帝国の保有地、第1次世界大戦後の委任統治倒、このようにして日本は1918年末には世界列強の一国になった。日本の経済成長は変則的ではあったが、東洋の他の国やインドよりも高い生活水準を達成するに十分であった。第1次世界大戦末の一時期、日本はインフレに苦しみはしたが、経済的には前進し、それに併行して人口増加も起きた。一部の権威者たちは、日本の帝国主義的冒険は、人口の圧力に帰せられるという。もちろん、この考えは他の人々からは否定されている。1928年と1938年の間、死亡率の下降傾向をもたらした健康水準の改善にもかかわらず、出生率が低下したのは、人口の年間増加数が最大限に達し、それ以後は下降が予想されるという考え方で説明された。日本は、工業生産に必要な原料を輸入するのに見合う程度の十分な製品を輸出することができている限り、日本の工業成長は人口を養うことができた。
資源に限りがあり、産業経済は原料入手の手段と世界市場に依存している以上、日本は、1920年代末期に始まった世界的不況の際、とくに弱い立場にあった。日本における国粋主義的要素は、内政危機と政治力上昇中の幸運な国々の不況から生まれた経済的ブロックシステムを利用可能にしたのであった。これらの要素は、日本の人口を養うに必要な資源獲得のための軍事力による領土拡張を擁護し、同時に、増加する人口を養うための彼らの帝国主義的政策を宣伝したのであった。軍国主義政策の矛盾は、大衆には認識されず、いったん侵略路線に乗り出すと、初期の勝利と愛国的熱気に国内の有力な反対は排除されてしまった。」(GHQ日本占領史第4巻人口P38)
この文章から分かるGHQの見解は、「日本は、工業生産に必要な原料を輸入するのに見合う程度の十分な製品を輸出することができている限り、日本の工業成長は人口を養うことができた。」としており、戦前の日本はその工業生産力と国際貿易体制を維持している限り、人口を養う力即ち人口収容力を持っていたという認識だ。工業生産力と国際貿易体制を維持している限り、人口増加の圧力により対外侵略や領土拡張といった帝国主義的冒険を選択する必要はなかったという見解に到達していた。文章を丁寧に読めば、「日本における国粋主義的要素」が、当時の国際環境を利用して、軍国主義的帝国主義的政策を国家に強要し、「初期の勝利と愛国的熱気」によって反対勢力を排除していったという、一部の国粋主義者たちが国家・国民を扇動して破滅的な敗戦に導いたという時代認識をしていたことも分かるだろう。しかし、論者の部分的な引用では、日本全体の意思として、日本の人口急増を解決図るべく領土拡張や帝国主義的政策を行っていたとGHQは捉えていたと誤解を招くような言説となってしまっている。(このため、GHQは日本民族全体を支配しようとしたという論説の伏線をはっていることともなる)
国粋主義的な分子の暴走の結果の敗戦によってもたらされた惨状についての認識と惨状に対するスタンスは、
「日本の指導者たちが、いくぶんかは人口問題の解決として正当化すべく企てた帝国主義的冒険は破滅と経済の瓦解に終わり、それによって解決すべく努力した問題をかえって悪化させてしまった。戦闘行動が終わったとき、経済活動は実際には休止しており、工業原料の備蓄は消耗しつくし、帝国は喪失し、外国貿易は中止され、そして日本は食糧と原料輸入のための伝統的な地理的源泉を喪失してしまったのである。連合軍の爆撃によって、人口の大部分が工業中心地から疎開してしまい、平和時に国の人口を養うのに要する通常の経済活動の再開に必要な労働力が分散してしまったのである。食糧の集荷と分配システムは全面的に崩壊しており、一方、何百万の本国への引き揚げ者たちは、すでに貧しい食糧資源に追加負担となることが予期された。日本は占領初期に経済的、社会的大混乱と飢餓と伝染病の切迫した脅威を伴った状況に直面していた。」(Ⅲ.戦後の人口調査 P48)
興味深いのは、GHQは戦前の日本における人口の急激な増加についての専門家や政治家の動向についても分析研究を行っていたことがうかがえることである。
「1920年代の専門家や政治家たちは、人口の急激な増加とこの傾向が継続することの将来的影響について分析している。ある人々は増大する人口を養うための国の経済力に対して懸念し、新聞や著書や政治団体で憂慮の念を表明した。 1930年に日本が直面した最も重要な問題とみなされた人口の圧力は、農業, 工業、商業と外交政策の困難な問題の根底に存在していると強く主張されていた。
1927年、政府はこの圧力を緩和するための工業化の増大を主張した。移民と植民地化を促進するために海外事業課が創設された [1929年]。それから、 政府は、人口問題と食糧供給研究のための人口食糧問題調査会を創設し [1927 年]、この委員会は8つの答申書を提出した後、1930年3月廃止された。この委員会は、移民と移植民の限界を認識していたので、人口抑制,工業振興,国富の分配と消費の改善、その他の経済的要因の調整を主張したのであった。常設の人口調査研究機関の設置が勧告されたけれども、政府はこの提案を実行に移さなかった。しかし、この調査会のメンバーは、1932年〔1933年が正しい〕 に財団法人人口問題研究会を設立した。人口問題へのより一層の関心を示しているのは、皇室の侍医が避妊法に関する記事を1933年1月に公表したことであり、続いて同年3月,文部大臣が産児調節の実践を唱導したことであった。
この人口圧力を緩和するために準備された政策には、耕地の開墾と農業改善、 移民、工業化、そして産児調節の実践が含まれていた。農業拡大に対する自然の限界と戦争状態によって引き起こされた悪化も注目された。」(同書P39)
しかし、権力を握った軍国主義的、帝国主義的分子は、領土拡張・国力増強のために、移民・植民地主義や「産めよ。殖やせよ。」と人口増を国民に宣伝した。だが、移民・植民地政策は本土の人口に比べて極めて小さい規模であり、軍国主義的な政府の宣伝による出生率を上げる奨励策(兵役中の結婚についての奨励、既婚兵役者への子作りの奨励、“自然に反する”堕胎の禁止)によって、増えた人口は結果として、敗戦後の経済的窮状に拍車をかけることになった。
従って、GHQの占領政策のスタンスは一部の国粋主義的な分子を排除しながらも、壊滅的な経済を日本人自身の手で立て直していくように側面支援をしていくと言う複雑なものとなった。
「初期のアメリカ合衆国の政策は、やがて基本政策として組み込まれ、その後、極東委員会によって確認されたが、このアメリカの政策は経済復興の責任を日本政府に負わせた。最高司令官は、日本の経済的窮状は過去の無法な侵略の直接的結果であることを日本国民に明らかにしようとした。彼は、如何なる特別の生活水準をも保持したり、あるいはこれまで保持してきたとする義務は全くなかったはずである。同時に、連合国の政策は、人口を経済的に挟養すべく準備する積極的な行動への必要を認識していた。日本国民は、平和時の必要に応じた経済発展のための機会を与えられるべきであった。この目的達成のため、利用できる人的そして天然の資源を利用する日本の努力に対して加何なる制約も置かれるべきではなかった。」(同P50-51)
繰り返してまとめるならば、人口圧力の解決の為という口実で引き起こした戦争の結果はかえって人口急増に対して生産力の瓦解と言う人口収容力の崩壊を招いたとともにその責任は日本政府が責任をもって贖(あがな)うべきであり、現実に進行している経済的窮状は、日本の国粋主義的、軍国主義的、帝国主義的指導者による無法な侵略行為がもたらした直接的結果であることを日本国民に明らかにした上で、日本国民が自らの手で、国の立て直しを図り、窮状から再び脱して、経済的復興を遂げるチャンスについては日本の責任としながらも保障されるべきであり、GHQはあくまで側面から保障する役回りを果たす立場にとどまることを明確にしたのである。(わかりやすく言えば、たとえ、国際的な戦争犯罪を行ったとはいえ、それは指導部の暴走によって引き起こされたことなので、日本国民の民族自決権は保障されるべきということだ。)
敗戦直後、GHQが直面した課題の一つは、敗戦後の農業生産力の著しい低下と流通経路の崩壊に伴う食糧危機による栄養失調や飢餓、大量の復員兵や引き揚げ者が持ち込む伝染病の蔓延のリスクを日本政府に回避させることであった。また、動員解除された元兵士や一部の若者達が占領軍に対する反感、憎悪による暴動や社会的混乱を引き起こすのを防止する必要もあった。そのため、貿易を管理統制していたGHQに対して日本政府は食糧輸入の許可を要請したのを受けて、アメリカや国際社会は日本に対して食糧援助をはじめ様々な経済援助を行った。
ガリオア援助(GARIOA=Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund:占領地域救済政府基金)
エロア援助(EROA=Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund :占領地域経済復興基金)
ララ(LARA=Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)物資援助
ケア(CARE=Cooperative for American Remittance to Europe:対欧送金協議会 1952年以降はCooperative for Assistance and Relief Everywhere:海外援助救援協議会)物資援助
ユニセフ物資援助
以上のGHQや国際団体の食糧援助・経済援助を受けて、日本政府は食糧危機を乗り切ってきた。
「国際社会とアメリカの占領期対日経済援助― ガリオア・エロア援助を中心として―」( 滝田賢治 中央大学法学新報 第121巻 第9・10号 https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/7467)に掲載されている内訳では

GHQ日本占領史第4巻人口解説には、これらの物資援助の効果として

出生数1000人に対する乳児死亡数(乳児死亡率)は、1940年85、1941年83と低下していたが、戦時中1943年(1942.10-1943.9)132、1943.10-1944.2.21の5か月年率199.2と激増したが、1949年には61と3分の1以下に改善されたと解説されている。
これら経済援助について、インターネットで確認できる論文として検索できるものとして、論文「国際社会とアメリカの占領期対日経済援助― ガリオア・エロア援助を中心として―」(滝田賢治 中央大学法学新報 第121巻 第9・10号 https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/7467)
があるが、論文ではガリオア・エロア援助について以下のように評価している。
「 おわりに──マーシャル援助とガリオア・エロア援助
第二次大戦後、アメリカはヨーロッパに対してはマーシャル・プラン(に基づくマーシャル援助)を、日本に対してはガリオア・エロア援助を行っていったが、これら二つ地域・国に対する援助にはアメリカの異なる政策意図と、両者に底通する政策意図が存在していたといえる。
(1)マーシャル・プランの根拠法である一九四八年対外援助法第一編の一九四八年経済協力法は、その目的を「自由な制度を存続させるため……アメリカの国力と安定の維持に合致する経済的・財政的…措置により世界平和及びアメリカの一般的福祉、国益ならびに外交政策を推進すること」とかなり抽象的な表現を使っていたが、トルーマン政権の本音はより具体的に西ヨーロッパ諸国の経済的崩壊が共産化につながることを阻止することであったことは今更指摘するまでもない。当初、ソ連やフィンランドあるいはポーランドを含む東欧諸国もマーシャル・プランの対象としていたが、最終的にはソ連が参加を拒否しフィンランドやポーランドにも参加拒否を強要したため、マーシャル援助は西ヨーロッパ諸国のみを対象とする援助となり、一九四七年三月一七日のトルーマン・ドクトリンとワンセットになってまずは地理的にヨーロッパ東西「地域」を分割する象徴となり、さらに地球的規模でイデオロギー的に東西「陣営」を確定する効果を持つことになった。
これに対して、ガリオア・エロア援助は、実質的にはアメリカが単独占領政策を行っていた日本に対する占領政策を成功させるために行われたものであった。確かに極東委員会(ワシントDC)・対日理事会(東京)が存在し、連合国全体の影響を受ける形式的前提はあったものの、トルーマン大統領、陸軍省そしてNACの指示の下SCAP/GHQが、まずは飢餓や疾病の拡大を阻止することを最優先に行った援助政策であり、この事実が米ソ冷戦の引き金になった事実はない。むしろトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランに象徴されるアメリカの政策が米ソ間の相互不信を深化・拡大させ、米ソ冷戦状況がアメリカによる対日援助政策を強化していったというべきである。」
論文にある通り、欧州は米ソ対立が戦後直ちに始まり、経済援助も東西冷戦体制の構築のために行われたが、日本における経済援助や占領政策は、1949年から本格化する逆コース政策以前は、日本の“非軍事化・民主化”や人道主義的な目的で行われる側面が強かった。従って、この期間においてGHQが日本の国力を削ぐために「人口戦」を仕掛けてきたとする第1記事の主張は歴史史料からは確認できない。
GHQ日本占領史第4巻人口解題の中に、当時の政策立案者の葛藤について論じた部分がある。
「この死亡率改善の努力にもかかわらず、出生率が低下しないために、異常な人口増加率をもたらしたことについては、当時公衆衛生,福祉担当だったサムス大佐(C. F. Sams、軍医)の後日談がある。それは、人道主義的立場から日本人の疾病予防に全力をあげ、めざましい死亡率低下の成果をあげればあげるほど出生率との差の拡大、つまり人口増加というもっとも厄介な問題をさらに深刻化させることになっている事実にサムス大佐は深刻に悩んだという。その時に、ある夜ふと思い出したのは医科大学の学生時分にThompson教授(占領軍、人口問題顧問)から、死亡率の低下はやがて出生率低下を導き出す条件となるという講義であった。いいかえれば、疾病を減少させ、死亡率を下げるということは一時的には自然増加率を増大させることにはなるが、やがて出生率低下を引きおこす基本的要因となるということである。サムス大佐は、この理論的結論の下に自信をもって職務に邁進することができたという。このエビソードはミシガン大学の竹下教授 (John Yuzuru Takeshita)が後年サムズ大佐を自宅に訪ねた時直接彼から開かれたものである。当時、サムス大佐は子孫に自分の業績を伝えるため執筆されていたのが “A Big Question”というタイトルであること、それは、人口増加についての日本での政策経験にもとづいたものであった。」(P10-11)
GHQは経済的困窮の救済と人口急増のジレンマを理論的に克服してきたのであり、これまで述べた一連のGHQの行動やスタンスに、日本民族の人口を抑制しようとする意図は入り込む余地はないように思われる。
2.GHQの人口問題に対する不介入・不干渉
しかし、わざわざGHQ日本占領史第4巻人口のⅣ人口政策の章に「2.連合国最高司令官の中立性」という一節を設けていることからも、GHQの行動に対して様々な不信・反発や流言があったと推察される。(反発や流言がないならこのような章をあえて設ける必要はないからだ)
これも長文になるが、引用しよう。
「2.連合国最高司令官の中立性
入口問題に関しての連合国最高司令官の立場は、日本のジレンマに関する議論の最初に公表されていた。日本の新聞に報道されたインタビューにおいて、 連合国最高司令官の公衆衛生福祉局長は、3つの可能性のある解決等を以下のように言明した。(1)高度産業経済の確立、(2)海外移住、(3)出生率の縮小。これらは連合国最高司令官の勧告ではなく、単に歴史的分析に基づいた人口過剰に対する可能な解決策の声明であった。最初の2項目の履行は連合軍にとっての政策課題であったが、3番目のものは“日本人自身によって解決されるべき” ものであった。①
*脚注には「陸軍大佐、C.F. Sams, PH&W 局長へのインタビュー、「時事新報」と「毎日新聞」,1946年2月12日にSCAPが公表。」とあるが、Looker-onは「時事新報」・「毎日新聞」図書館データーベースで検索したが、記録されている紙面が少なくて内容を確認できなかった。記事を持っている方がいればご教示願いたい。
*「日本国民が戦争前に摂取していた一人当たり2,160キロカロリーで今日日本の人口を養おうとすれば、現在の日本が養える人口はわずか4,700万に過ぎず、その水準を今日の衛生学上の見地から日本人が絶対必要な最低平均の1,800キロカロリーまで引き下げて換算しても、今日の日本の全人口の必要とする食糧を維持するためには、1年に350万トンの食糧の輸入が必要である」と日本側資料では示されている。(旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給等に関する法律第21条に基づく調査報告書;令和5年6月19日衆参両院厚生労働委員長から衆参両院議長に報告された報告書
第1編 旧優生保護法の立法過程 第2章 旧優生保護法の制定過程P 71https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/shiryo/yuusei_houkokusho.htm)
敗戦後の複雑な社会経済的問題は、政策とプログラムの効果的な策定のための正確な情報を必要とした。人口問題それ自身が基本的であり、そしてそれは日本が直面している他の諸問題と浸透しあう関係があるので信頼できる資料の編集を必要とした。連合国最高司令官は統計資料を収集し評価し、傾向を分析し、行政目的のために利用したが、日本の人口プログラムを作るとか、あるいは押しつけるといったいかなる企てもしなかった。②
*脚注によれば、「GHQ. SCAP, ESS. Annual Changes in Population of Japan Proper 1 October1920-1October 1947,July 1948, p3」より引用。ここまで探し当ていることができなかったのでこれもご教示願いたい。
1949年春,人口調査機関の勧告、専門家の意見の公表、そして人口コントロールに向けて政府の努力に刺激されて、産児制限反対論者の抗議が起きたとき、 最高司令官は連合国最高司令官の見解を再び強調した。人口顧問らが連合国最高司令官に対して行った産児制限を擁護する公の声明には、宗教家のグループの抗議を呼び起こした。その顧問たちの著名さと彼らが連合国最高司令官に所属していることのゆえに、その抗議者は、単に個人的意見として述べてきた顧問たちの見解を連合国最高司令官の政策を表明したものと誤って判断してしまったのである。
最高司令官はその抗議者への回答の中で、連合国最高司令官は日本の人口制限を研究しているのでも、あるいは考察しているのでもないと述べた。最高司令官は産児調節は連合軍の政策の範囲内にあるのではなく、また最高司令官の責任または権限のうちにあるのでもない、と述べた。連合国最高司令官に所属している彼らが公けに述べた声明は単に個人的意見を反映しているにすぎないのであって、占領当局の考えかたあるいは見解に基づいたものではなかった。
連合国最高司令官の見解は以下のようなものである。
どのような誤解をも防ぎ、どのような誤認をも一掃するために、最高司令官は、彼が日本の人口制限問題のいかなる研究、あるいは考慮にもたずさわっていないということを理解されるよう願っている。このような事柄は占領当局の指令領域に含まれるものではなく、そして、決定はすべて日本人自身にかかっているのである。・・・・・・産児制限は、社会的、経済的,神学的側面をもっており、結局において個人の判断と決定に関するものである。人口に関するより根本的な問題は、長期的そして世界的なものであって、連合国政策の指令する範囲あるいは最高司令官の行政部の責任または権限の範囲内にあるのでないことは確かである。
しかし、連合国最高司令官は、国民は社会問題に関する自由で啓発的な討論については慎重であることを明確にした。③
*これも脚注によれば、「日本における人口調節についての提案に関しては、SCAPの中立性に関して誤認の可能性を防ぐため、訪日専門家が起草した日本の天然資源、そして日本のための人口政策(覚え書“Responsibilities in the Field of Demography” C/S から ESS, PH & W. &CI&E宛.11 July 1949,親展。覚え書 NR 740 (30 March 1949) “A Population Policy for Japan”訪日専門家W.S. Thompson から部局長宛。30 March 1949.親展。)に関する SCAP の1949年7月11日付発行を認可されなかった覚え書の報告書から、日本人に人口調節を考慮するよう勧告した一項目が削除された。」とわざわざ断っている。」(P113-114)
①の部分は、1946年
②の部分は、1947年~1948年
③の部分は1949年
となるのだが、ほぼ占領開始時からGHQは、組織として、日本の人口問題については不介入不干渉の立場を取ったこととなる。
こうした一貫した態度は、興味深いことに第1記事で、GHQの人口抑制政策の片棒を担いだと第1記事で非難されている加藤シズエ氏の証言がGHQの一貫した姿勢を補強している。これも長文であるが、引用していこう。ちなみに、この証言は、第1記事も加藤シズエ氏の証言を引用利用している半生記「ある女性政治家の半生」(加藤シズエ著 1981/11/1PHP研究所刊) からである。
第六章晩鐘「産児制限法と優生保護法」から時系列的に抜き出していく。
「一方、産児制限の方法はと言えば、私が昭和十二年の人民戦線事件で逮捕されて以来、もう正面切って産児制限を普及する人は、一人もいなくなってしまった。
それでも、需要あれば供給ありで、避妊薬が売られてはいたんですが、避妊という言葉は風俗壞乱だとして、警視庁から禁止されていました。だから、新聞に広告することができない。止むを得ず、性病に効く薬だというふうに広告しているんです。(略)
その広告が出まして、それで売れる。でも、もちろん避妊には効きませんからね。買った人が苦情を言うと、
「あなたは妊娠してるんじゃないんですか? これは月経不順などに効く薬で、妊娠に効くなんてと言も書いてませんよ。あなたはまさか、刑法違反の堕胎を考えてるんじゃないでしょうね」って、開き直って逆ねじをくわす有様で、避妊を願う女の切実な気持を利用してお金をとるひどい商売です。
こういう状態でしたから、私は引っ張り凧で、とても一人では御依頼に応えられない。そうしたら、渡辺道子さん(前社会党婦人局長)小川玉子さん(元神奈川県議)が、すっかり私の考えに共鳴して、指導の方法もすべて呑み込んで下さったものですから、三人で手分けして、やっと全国の御依頼に応えるというふうでした。
それで、私は考えました。これだけ御婦人方の要望が強いんだから、産児制限の普及が公に認められるような法律を作ろうと思ったんです。私が戦前品川区立会川で開いていたような相談所とか、指導員とか、器具薬品、こういうものが公に認められたら、日本中の婦人が随分助かりますからね。
幸い、社会党の議員の中に、大田典礼さんがいらっしゃいました。この方は医学博士で、戦前から私の運動に力を貸して下さり、御自身も京都を中心に、産児制限普及に取り組んでおられました。ですけどやはり官憲の弾圧を受けて、二年近くも未決監に入れられたりなさった。戦後初の選挙で、当選して来られたんです。
私が相談いたしますと、大田さんは、「ウム、時来たれり」とおっしゃって、早速法案作成にとりかかかれました。二人で知恵を出し合って作った法案を、大田さんと私と、それに同じ社会党の福田昌子さんという女医さんの三人が提案者になって、衆議院の厚生委員会に、議員立法として提出しました。
しかし、占領下のことですから、議員立法を出すにしても一応GHQの了承を得なくてはなりまきた。経済企画局へ出かけて、厚生問題のキャップ、サムス大佐に会って説明いたしましたら、よく判ったとおっしゃいました。
そうしたら間もなく、サムス大佐は、「日本の人口問題の将来について」というメモを、正式に発表なさったんです。これは、国土や資源に比較して非常に人口が過剰な日本の人口対策はどうすればよいかということで、若干の対策が書いてありました。第一は移民。だがこれは相手国が受け入れてくれたければ成立しない。第二は工業化。諸外国の例を見ると、工業化が進めば出産率は下がっていると。第三は家族計画の普及などでした。
やれやれ、私たちの意見をGHQは別に反対はしないんだと、一安心したのですが、この直後秋、予想外のことが起こったんです。
サムス大佐の意見書のことがアメリカに伝わりましたら「よその国の人口問題に対して、指令部が口を出すとはけしからん」とカトリック信者が騒ぎ出しましたの。
マッカーサー元飾は、日本占領軍の総指令官のお役目がすんだら、帰国して大統領選挙に出馬すも計画を持ってらした。ですから、アメリカのカトリック勢力を敵に廻すことは避けたいと思われたんでしょう。サムス大佐に、「日本の人口問題に手を触れてはならぬ」と、厳重な命令をお出しになった。
そうなったらとたんに、日本の政府を国会も、こんな問題に触れたら危ないと、態度が一変したんです。
それでも私と大田さんは、議員立法の提出手続きは完了しておりましたので、審議される方向へ、どんどん進めて行きました。
この当時、首相は片山哲さんで、厚生大臣は民主党の一松定吉さんでしたが、私が予算委員会で 「日本の家族計画をどう考えておられるのか、どういう対策を持っていらっしゃるのか」って質問しましたら、
「何も答弁はございません」っておっしゃった。
「考えはあるが、今のところ対策はない」とおっしゃるならまだわかりますけど、指令部がこれには手を触れてはいけないと言ったものですから、皆、震え上がっちゃったんです。でも私は、厚生委員会がまだ残されていると思って、落胆せずにおりました。
厚生委員長は保守党の方でしたが、割合に話のわかる方で、大田さんと私がいろいろ折衝した結果、この法案をとり上げて下さいました。
私たちは大変喜んで、議員立法ですから質問が出たら大田さんなり私が答弁するつもりで、張り切って出席いたしました。委員長が法案を読み上げて、
「この法案について質問のある方はどうぞ」と言われました。ところが、誰もものをおっしゃらないんです。で、委員長は、
「御意見でも結構ですからどうぞ」と言われたんです。それでも声が上がらないの。
イエスでもノーでも、一言でも声が上がればいいなと思っておりましたが、いくら待っても、どこからも声が出て来ませんので、委員長は、「御質問がないようですから、これは次回に廻します」とおっしゃいました。
それで、次回はどうかというと、この時もまた前回同様、誰一人発言なし。
とうとうこの法案は流れてしまいました。」(「産児制限法と優生保護法」P151-P156 )
加藤シズエ氏個人の証言であるので、その真偽については専門家の厳密な考証が必要であるが、サムス局長の1946年談話については提案内容や反響の方向性についてもGHQも加藤氏の証言も一致していることから、GHQは「統計資料を収集し評価し、傾向を分析し、行政目的のために利用したが、日本の人口プログラムを作るとか、あるいは押しつけるといったいかなる企てもしなかった。」としているのは妥当性があると思われる。第1記事にある「衆院議員に当選した加藤氏や医師出身議員らは精力的に動いた。GHQ公衆衛生福祉局のクロフォード・サムス局長が記者会見で産児制限を強く促したこともあり、2 3年6月、日本政府の慎重姿勢をよそに人工妊娠中絶を認める優生保護法が成立した。」という一節は、サムス局長の談話は1946年2月であり、GHQ自身が談話の意義を否定しており、加藤氏自身もGHQによって産児制限というテーマ自身が国会審議で自主規制がなされたという証言を積み上げていくとおおよそこの記事の一文は歴史的な事実からかけ離れていると言わざる得ない。
3. 加藤シズエ氏とGHQの関係について
論点が多岐にわたり、まとまりがつかなくなってきたような気がするが、
最後に第1記事で「戦時中の新聞や書物には、「人口戦」という言葉がしばしば登場する。相手国民を減らし、弱体化させるための作戦を展開するのだが、虐殺ではなく、経済封鎖などによって出産期の女性や小さな子供の健康に影響を与え、あるいは結婚や出産をためらわせる思想を普及させる間接的な形で実行される。
連合国軍総司令部 (GHQ) も例外ではなかった。目に留まったのは、戦前、産児制限の普及運動に取り組んでいた加藤シヅエ氏 (1897〜2001年)たちだった。
産児制限を合法化し日本に定着させる推進役となることを期待し、女性の立候補が認められた昭和21 (1946)年の戦後初の総選挙で、加藤氏らを後押ししたのである。」
と加藤シズエ氏等をGHQの世論工作員のように論じ、断罪している。本記事が引用している加藤氏の著作からいくつかの断片を抜粋してみたい。皆さんはどう読むだろうか?
「九月二日にはミズリー号で、降伏文書の調印が行われて、ああこれで完全に終戦だと思ってましたら、少し経ったある日、ジーブが家の前に停まりましたの。この時分ジーブが停まるなんて、大変なことなの。で、近所の方が何事かっていうわけで飛び出して、でも何となく怖いから遠巻きに人垣を作ってるの。その中から制服の若い中尉さんが降りて来ましたが、そのお顔が日本人の顔なんで、また皆驚いてましたね。二世で、塚本太郎さんというGHQの民間情報教育局の方でした。家に上がっていらっして、こうおっしゃるの。
「今日実は、お願いに来ました」って。何事かと思いましたら、
「日本に新しい民主主義の法則を作らなくてはならないので、御夫妻にいろいろな意味で相談相手になって貰いたい。非公式な顧問を引き受けて頂けませんか」とおっしゃいました。加藤には、労働問題を担当して欲しいって。鈴木文治さん、松岡駒吉さん、西尾末広さん等にもお願いするとのことでした。
そして私には、婦人問題の顧問に就任して下さいと、おっしゃった。私は、意見を聞いて下さるなら嬉しいことだと思って、お受けしました。
間もなくお招きがありまして、行ってみると、戦前弾圧を受けた立場の方たちが何人か集まっていました。それで占領軍からいろいろ相談を受け、意見を言うわけね。
何回もこういう会合がございました。招ばれると、御馳走が口に入るんです。長いこと食べたことのないスープだの肉だのサラダだの、デザートとコーヒーが出た日にはもう、本当にこたえられませんでした。
婦人問題の顧問として、私が最初に質問されたのは、
「日本の婦人は、戦前どういうことで一番苦しんでいたのですか。それで、何を一番求めていたのですか」ということでした。それで私は、
「人間として認められることを求めていました」って申しましたら、
「具体的にはどういうことか」とおっしゃったので、家族制度について詳しく説明した後、 「日本でも戦前、人が公民権を求めて運動を起こし、婦人参政権獲得を要求して国会練情も行ったんです」と申しましたら 、
「おお、日本の女性はただ黙って耐えているばかりではなかったんですね」と、目を丸くしておら
れました。」(第五章炎精「戦後初期の婦人運動」P121-P123 )
「この選挙で、三十九名の婦人が当選いたしました。
これを一番驚いたのは、誰だとお思いになる? マッカーサー元帥とそのスタッフでしたの。マッカーチー元帥はかねがね日本のことをよく研究なさって、日本という国家は非常に軍国主義的で封建的であるが、対照的に日本の女性は何と優れていることだろうと、口癖のように言ってらしたそうです。日本に赴任なさる飛行機の中でも、「親や夫や子供のために尽す犠牲的精神に富んだ日本の女性を、不平等に扱っていた法律を改正して、解放しなくちゃならない。私は真っ先にこれに手を着けたい」と、おっしゃったそうです。
こういう方ですから、初めて参政権を手にした日本の女性が、どういう投票をするかに注目していらっしゃったわけですが、「初めてのことだし、五、六名当選すれば上等の部だろう」と予測しておられた。それが何と、三十九名出て来ましたから、意外や意外と、びっくりなさったということです。」(第五章炎精「日本初の婦人議員」P136)
ちなみに、第1記事で引用されているように、確かにGHQの将軍(名前は不明)から加藤氏は婦人参政権運動をしていた理由で衆議院選挙に出馬するよう勧められたが、そのあとの文章では、自身の選挙資金はないため、途方に暮れていたところ、戦前世話をした労働者が経営者に転身し、「恩返し」として資金提供と選挙参謀を引き受けてもらう等GHQからは援助もなく、歩いてメガホンで声を張り上げて選挙戦を行ったことが書かれている。
たしかに、GHQは戦前の民主主義的な活動を担っていた運動家から日本を民主化していくうえでの課題を調査してはいたが、加藤氏に限って言えば、それは婦人解放·権利保障という点であり、産児制限・人口抑制の世論工作員として活用する内容は見受けられない。第1記事の内容は故人の名誉を傷つけ、史実を歪める危険性を持ったものと言える。
以上、GHQが日本において人口抑制政策、産児制限を推進したというのは歴史的な事実なのかを1次資料に基づいて検証してきた。GHQは敗戦による国土・経済破壊、引揚者による人口急増に対して人道主義的に、葛藤をはらみながら救済にあたった。そこで問題となる人口抑制・産児制限に対しては、日本人自身の問題として注意深く介入しないように対応した。「連合国最高司令官は、国民は社会問題に関する自由で啓発的な討論については慎重であることを明確にした。」戦後の混乱期、国粋主義的、急進左派的、様々な言論、極端な言論が行きかう中で、自由で活発な討論は、民主主義を育成していくうえで必要であるが、加熱しすぎないようにコントロールをしていくことも求められた。そのための世論調査や言論を許可するGHQの行動を、間接的な世論コントロールと陰謀論的に評価するのは、歴史や史料に対して公平な見方ではないのではないだろうか?
次の投稿では、第2記事にあるような、日本政府自身は人口問題にどう対応してきたのかを明らかにしていきたいと思う。
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