今回から児童虐待及び児童虐待防止システムについて数回書いていこうと思う。この問題を触れる際、先ず一つの歴史的な事実を確認しておかなければならないと思っている。

大体の人は、平成12年11月に児童虐待防止法が施行されたのをもって、児童虐待に対して日本で初めて児童虐待防止システムが本格的に動き出したと思っていないだろうか?しかし、これは歴史的事実からはかなり反している。現在、児童虐待防止法と呼ばれる法律の正式名称は、「児童虐待の防止等に関する法律」であり、これは本来、児童福祉法に整備されていた虐待防止関連の条項を抽出しまとめたものだ。さらに、児童福祉法の様々な虐待防止条項は、昭和8年(1933年)に公布された児童虐待防止法(昭和8年法律第40号)の条文を取り入れる形で作られたものなのだ。日本には、戦前からすでに児童虐待防止法が公布施行され、児童虐待防止システムが動いていたのである。

児童虐待防止の大きな目標を実現していくためのシステムの整備は、制度の検討、反省と改善の繰り返しにあると思っているが、そもそも戦前から児童虐待防止システムがあったことはほとんど触れられず、触れても身体的障害を見世物にする、曲芸を行わせる児童搾取という面しか取り扱わなかった等否定的な紹介がされる程度だ。
これまで、このブログでは原史料にあたり、歴史的に考察するスタンスで問題を検討してきた。児童虐待防止システムについてもそのスタンスで情報を提供してきたいと思う。そして、これまで触れてきた入所施設の問題と同等の問題が潜んでいることも明らかにしていきたい。

結論をやや先回りして言うと、
戦前の児童虐待防止システムは、前時代的なものではなく、それなりに現在のシステムより優れた面がある。
②ただ、その目的は児童の人権・生命を守ることに重点があるのではなく、児童虐待が犯罪者・不良少年を生み出す温床であるという認識に基づいて、少年犯罪の予防が司法省の認識にはあった。少年法・少年教護法体系の重要な一角をしめるシステムだった。
③この側面が、現在の児童虐待防止システムにおいては負の遺産として引き継がれてきた。

戦前の児童虐待防止システムを理解するためには、戦前の少年法・少年教護法に見られる少年の非行行為及び犯罪行為の防止システムを理解する必要があると感じたのは、森山武市郎 (1891-1948)が1942年に著した「少年法」(日本評論社)を見つけたからだ。

森山武市郎氏の経歴を調べると、
1912年、明治大学法学部卒業。 独仏で民法、商法、労働法を研究した後、政経学部教授に就任。 また、検察官としては、東京控訴院検事、宮城控訴院検事局検事長などを歴任。 1935年から1943年の間は、司法省に赴任し、保護課長及び保護局長などを務めた。 1948年、57歳で逝去。(Wikipediaより)
正に、犯罪少年・非行少年の保護観察制度を主導していた人物であることが分かる。内容も、明治時代からの法制度の歴史を踏まえた記述がなされており、解説書としては分かりやすい。

以下、「少年法」や関係史料に沿って、制度を概観していくと

①前史として、明治13年刑法制定で、12歳以上16歳未満の少年が「是非の辮別なくして」罪を犯した場合、刑法上の罪を問わず、「懲治場に入れて教養する」ことを始まりとして、明治14年改正監獄則では、成人犯罪者の投獄とともに、満8歳以上20歳以下の「放逸不良ノ者」にして「矯正歸善」のため、その尊属親より願出がある場合は、収容することとなった。しかし、成人犯罪者と一緒に収容する懲治場は弊害も多く、効果がなく少年をかえって悪化させるとなり、例えば留岡幸助が行った家族寮舎の集合形式による家族学校に代表される感化教育を施す場として各県に感化院を設置する「感化法」が明治33年制定され、明治41年新刑法では懲治場は廃止され、14歳未満の者の犯罪行為は罰しないが、懲治処分を受ける幼少年は全て感化院に収容することとなった。感化院は、内務大臣が認可を与え設立されるシステムで、非行少年・犯罪少年の矯正教育の役割が期待され、民間・国立感化院の整備も進められたが、整備も十分進まず、感化院収容では、多数の犯罪少年を収容できないばかりか十分に保護ができない事態も生じた。

②少年刑事政策全般で見ると、感化法でなしえる領域は限定的であること、またあくまで感化法は特別法が制定されるまでの過渡的役割という認識から、明治41年の刑法並びに感化法からの予定であったとは言え、特別法の制定の検討がますます求められることとなった。明治44年9月19日司法省の法律取調委員会中刑事訴訟法改正主査委員会第91回会議にて、少年に関する法律の制定が重要問題として論議されたのを契機にして,立法作業が本格化し10年以上の経過を経て、大正11年少年法及び矯正院法が刑法を補足するべき法律として成立した。少年犯罪者をめぐる状況は深刻で、刑事処分された18歳未満の者は、大正3年1万以下であったが、大正8年には1万5千人を超え、収容施設としては小規模な感化院以外ない為、放任又はやむを得ず刑事罰を受けさせる以外なく、ますます犯罪少年が増長してしまうという悪循環が生じていた。

大正11年に制定された少年法(大正少年法と以下略す)は、18歳未満の少年を対象とするが、その特色として
1.刑の教育化
刑罰は維持しつつも、刑罰も「有効なる改悛促進の手段」として認める。
2.保護主義の原則化
刑罰は維持しつつも、「刑罰はこれを制限して眞に已むことを得ない場合に限りこれを適用し、原則としては保護處分を以って貫く方針」を取り、保護処分の形態を豊富化した。
3.虞犯少年の保護
犯罪を犯す可能性のある少年も保護する

感化法の「不成績」の原因の一つに、感化院に入院命令をする際も地方長官(知事)の指揮の下での警察の取り調べのような「終始純然たる」行政手続きによって処理されるので、少年の特性等に配慮した審判ができないことが上げられ、最大の原因としては、収容保護以外の保護方法がなかったことが上げられた。そのため、以下の特色は重要だ。

4.少年審判機関の設置
少年の特性や環境に配慮した専門の審判機関(少年審判所)を設置することとし、「司法を裁判の同義語と解するならば少年審判所は司法官廳ではない」が、刑に代えて行われる保護処分は、司法事務の範疇に属するので、少年審判所は司法大臣が監督する「廣義に於ける」司法官庁とされた。
5.新しき保護形態の設定
保護形態として、観察(プロベーション)少年保護司による)及び個人の家族等(寺院・教会・保護団体の場合もある)への委託も導入し、感化院や矯正院への収容もしくは病院送致と併用した。
6.人格調査
処遇の個別化を図るため、「性行、境遇、経歴、心身ノ状況、教育ノ程度」を調査する人格調査権(心身ノ状況については成るべく医師の診察を受けさせる)を少年審判所に付与した。

こうした刑法と別個に少年法を司法省が立案したのは、次のような少年犯罪に対する認識がある。

「刑罰は、これを近代に於ける社會的歴史的事實として觀る時は、道義的に責任ある行為としての犯罪に對する制裁であつて、道義的責任のないところには犯罪はなく、從つて刑罰もない。刑罰の基礎は、一定の行為に道義的責任を認むる國民社會の法的感情の中に存するのである。然るに少年の行為は、少年の心身の事實上自然的に未熟なることを鑑みれば、行為自體は法の侵犯となるにしても、これを爲したる少年の責任は一般成人に關する責任の觀念を以てこれを律することは出来ないから、これとは別個の獨自の觀念を以て之に對しなければならないのである。殊に少年の犯罪的行爲の原因が、彼の未熟なる心身にあるよりも寧ろ先天的叉は環境的壓力の所産であることが認識せられるとき、理論上のみならず國民社會の法的感淸も亦、其の行爲に關する少年の責任を輕減せんとするに傾くのであつて、斯くして近代の文化國家にあつては何れも、少年犯罪に對する對策は一般刑法から分離して考へえられる。」

「すべての少年は、次代の國家を擔ふべき者として、保護育成せられねばならぬ對象となつて現れて來る。」

以上のような、犯罪を犯した加害少年について、先天的な原因や環境が原因である場合、教育を施し、国民として更生させるという国父思想ともいうべき考えは、現代でも少年法は加害少年を守る法律と批判される一因を作っている。その原因は、大正少年法を支えた以上の少年犯罪観にあると言えるのだ。


但し、当時の司法省は犯罪少年について、保護育成の責任があることは説きつつも

「…然し國民社會の法的感情は未だ全ての少年犯罪について本人の道義的責任を免除するものではない。心身の發育未だ充分ならずと雖も、是非の分辡別に從つて行動する精神能力を有すると認められる者は、其の行動につき道義的責任を負擔すべきものとせられる。」
と少年であっても、成人と同様の刑罰で罪を贖う余地を残してはいた。

③少年法成立に伴い、大正11年に感化法は原則刑罰の対象ではない14歳未満の少年を対象とし、14歳以上18歳未満の少年は少年法の対象とするように改正された。一方、少年年審判所はすぐに全国に整備されず、大正11年に東京・大阪に設置されたのを皮切りに、昭和16年仙台・札幌に設置されるまで実に整備に20年近くを費やした。その間にも、非行少年の増加は進み、感化法に内容性を持たせる改正を求める声が上がりだしたので、政府も民間とともに調査研究を開始した。大正15年9月29日内務大臣から内務省社会局内に設置された社会事業調査会に改正について諮問し翌年の答申をもとに改正を進めていたが、昭和7年12月10日衆議院議員荒川五郎、山下谷次が感化法改正案を少年教護法と名称変更して帝国議会に提出。一部修正を経て、昭和8年5月少年教護法公布、昭和9年10月より施行となった。これにより、感化法は廃止された。

*森山氏「少年法」では成立経過を淡々と事実のみ記載しているが、国会審議では少年法と少年教護法(感化法)の関係について、それぞれの監督官庁である司法省と内務省がそれぞれ答弁をしている。内務省は、14歳を犯罪能力、責任能力がある年齢とみて14歳以上は少年法で、14歳未満は感化法でと両法の役割分担、調和を主張し、感化法が成果を上げづらい要因の一つとして、鑑別が十分行われていないことをあげ、少年鑑別所を設けることを支持した。司法省は、感化の成績をあげるのは少年鑑別所ではなく感化院の院長・教師への信頼を高めることにあると反対し、少年法と感化法を並行させる大正11年の内務省・司法省の合意はされているので、その範囲内の改正については、「矢張感化法ヲ改正スル必要ガアリマスナラバ、感化法ノ現行ノ範囲内二於イテ御改定ヲ為サレバ宣イ。」(小山司法大臣答弁)と法案案を批判しつつ、お好きなように的な態度を示した。

*上記の経緯は、少年法施行60周年記念出版として発刊された「少年矯正の近代的展開」(財団法人 矯正協会 編集 昭和59年5月刊)に所収されている原史料を要約したものである。

少年教護法は、14歳未満の少年を対象とするが、その特色として、少年法の方式を大きく取り入れて以下のように改正された。
1.感化院は、少年教護院に改められ、各都道府県及び国に少年教護院を設置し、都道府県の少年教護院は、地方長官(知事)が、国立少年教護院は内務大臣が管理し、認可は内務大臣が出すこととなった。
2.法案では、少年一時保護所を附設した少年鑑別所を国、都道府県に設置し、少年を鑑別し、少年教護院への入院、家庭委託等の行政処分をするとしたが、成立した修正案では、少年鑑別所は、「少年鑑別機関」に変更され、設置も「できる」に後退した。

法案
第4条 道、府、県ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ少年ノ保護方法ヲ鑑別スル為、少年鑑別所ヲ設置スヘシ。但シ土地ノ状況ニ依リ少年教護院ニ附設スルコトヲ得
   国ハ必要ノ場所ニ少年鑑別所ヲ設置ス
   少年鑑別所ニハ少年一時保護所ヲ附設スヘシ

修正案
第4条 少年教護院内ニ少年鑑別機関ヲ設クルコトヲ得

3.その代わりに、少年教護院への入院については、少年審判所からの送致や裁判所から懲戒場に入るべきと許可された少年も追加され、刑法・少年法体制に組み込まれることとなった .
4.少年法における少年保護司と類似した少年教護委員が地域に設置された。

これにより、我が国の少年保護制度は、少年法(刑事政策 司法省)と少年教護法(社会政策 児童保護事業 内務省後厚生省)が連携住み分けをしながらの二元的な運用にゆだねられることになった。
少年教護法は、実に検討期間も含めると9年近くの歳月を費やしたが、この投稿の主題である児童虐待防止法は、この少年教護法審議中の昭和8年3月11日に政府提案(内務大臣)で衆議院に提出され、3度の少年教護法案委員会の審議、2度の貴族院児童虐待防止法案特別委員会での審議を経て、昭和8年3月23日可決、4月公布、10月実施と少年教護法と比較して、超スピード審議で成立したのである。
このような少年法・少年教護法によって犯罪少年・非行少年に対する更生システムが整備される真っ只中で、戦前の児童虐待防止法は成立した。当然、少年法・少年教護法システムと無関係のはずはない。次回、この法律の評価や内容を検討してみたい。

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