6月5日の厚生労働省発表において、2023年の出生者数は72.7万人と前年比4.3万人減少し、過去最低水準となり、合計特殊出生率は、1.20と前年を下回るのはこれで8年連続、2022年の1.26からさらに低下した。毎年毎年、「少子化」について国民に広報し、子育て支援策を立て続けているにもかかわらず、目立った成果が上がらない。政権や政治家(特に「保守系」)は、現状をどう評価しているのだろうか?

前々回の投稿で、そもそもの少子化の背景として、第1次ベビーブームが、1947年~1949年の3年間で終焉したことが大きいと指摘した。簡単に言えば、出産、子育てや家庭に対する価値観が多様化する一方、そもそも第1次ベビーブーマーから第2次ベビーブーマー、第3次ベビーブーマーへ世代が節目で入れ替わっていく際の総数が減っていくならば、多様化はより出産を望む女性や世帯を減らしていく傾向に働くからだ。今回の投稿では、この周辺の問題を、史料をたどりながら考えてみたい。

前回の投稿で、大正期から出生率が穏やかに低下していったと述べたが、これは女性の社会進出と無縁ではない。明治以来の「女工哀史」以来、製糸業・紡績業への女性の労働力酷使は言うまでもないが、タイピスト、電話交換手、「エアガール」(客室乗務員)といった花形職業へ女性を参加させる動きがすでに存在していたし、昭和恐慌・満州事変と戦争から軍国主義化していく中で、皮肉なことに女性の労働進出は進み、地位も向上していった。男性がどんどん軍隊へ召集され、国内の労働力が急激に減っていったからである。軍需産業(航空機製造も含む)、国鉄等など女性たちが支えていたのである。漫画「この世界の片隅に」に嵐の中郵便を届けにくる配達人も女性であった。(作中では、そのうち男たちが帰還し職を失うことが暗示されている。)国鉄は本来男性の職場であったが、動員と共に駅の出改札などは成人男性の就業は禁止され、車掌・車掌補・駅手・駅務係・電話係・踏切番・看護婦などあらゆる業務に女性は配置されていった。正確な研究がないが、証言によれば、1946年(昭和21年)時点でも5万5千人の国労婦人部が組織され、多い時は12万人の婦人組合員を組織していたとも言われている。(終戦時の国鉄職員は55万人)

戦前、精密な航空機製造に威力を発揮していた女性の能力の高さや粘り強さは、50年代以降電気機器や光学・精密機器の製造現場に生かされる。その源流は、戦前の動員にあるのだ。

*戦前の女性の労働進出については、国立公文書館アジア歴史資料センター>アジ歴グロッサリー>テーマ別検索「公文書に見る戦時と戦後 -統治機構の変転-」>Q&Aから検索>生活「戦前の女性って社会で働いていたの?」というコラム(https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa21.html)の中に簡潔にまとめられている。実態は、もっと進出していたと考えてもらった方がいい。

女性の公民権・参政権についても、複雑な経緯ではあるが、1930-31年にかけて浜口雄幸民政党内閣提出の「制限公民権案」が衆議院可決、貴族院否決となるまで、婦選獲得同盟等の運動が盛り上がりを見せたが、同年満州事変を契機に、運動側も戦争協力に転じ、参政権運動は抑制されていくこととなる。

日本の女性の知的能力、労働能力の高さ、政治的権利に対する意識の高まり(ついでに言うと、シャドウワークとしての家事労働の能力の高さ、伝承水準)に対して、敗戦後、男性及び政治権力はどう対応したのか。

政府は、1945年(昭和20年)8月15日にアメリカ、イギリス、中華民国が宣言したポツダム宣言を無条件に受諾し、連合国に降伏をした。

その一節第9には、

9. The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生產的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ

戦争に参加していた男性兵士たちは、家庭に復帰し家族と共に平和で生産的な生活をすることを求められた。しかし、当時の厚生大臣芦田均は、閣議で次のように述べた。

1 厚生大臣閣議要望事項:復員および失業者の推定に関する注 (20. 12. 16)

戦争終結二伴と左ノ如ク 1,324万ノ復員者ヲ生ジ之ニ対シテハ極力前職復帰ヲ図ルノ外現在就職セル女子等ヲ家庭ニ復帰セシメテ代替就職セシムルト共二新規就職ニ際シテハ之等復員者ヲ極力就職斡旋セシメツツアルモ現在ノ諸情勢二在リテハ極メテ困難ナルモノアリ,而シテ前述前職復帰女子代替等ノ諸方途二依リ復員者ノ職業確保ヲ図ルモノト仮定スルモ尚究極ニ於テハ600余万ノ就業不能者ヲ生ズルコトヲ予想セラレ現二各庁府県ヨリノ報告ニヨレバ現在又ハ近キ将来=於 テ既ニ400万ノ失業者ヲ生ゼントスル現状ナリ

(1) 第一次復員数(昭和20年10月上旬)

1 軍復員(内地) 396万人

2 工場休廃止………… 413万人 (外二女子75万人)

計 809万人

(2) 第二次復員数

1 軍復員() 365万人

2 在外邦人… 150万人

 計… 515万人

(3)合計… 1,324万人

膨大な復員者、失業兵士を前にしていたとしても、現就職している女性労働者を「女性は家庭に戻れ」として大量解雇する方針の是認を求めたのだ。

翌年2月9日、中央失業対策委員会建議「失業対策として急速措置すべき事項に関する意見」において、女子失業対策の項では

臨時国民登録の結果に依ると女子の失業者数149万の多きに達して居るが、女子は必然に家庭に帰るべきものとして、この放置するにおいては、取り返しのつかぬ悪結果を招来すること無きを保し難い。

難し、女子の中には、特殊の生活事情を持つ者がかからずあるからで、これを一括することなく夫々に応じて、次の如き施策が必要とせられる。

(1) 悪性インフレによる家計費の膨張甚しき今日、女子と雛も生活上,就職を必要とする者は能ふ限り就職せしむること。

(2) 賠償見送り物資その他の軽工業生産には出来得る限り多くの女子を使用すること、

(3)今後,振興すべき諸種の産業運営における事務的部門においても、男子よりも女子に適切なる業務には女子を使用すること。

(4) 同一業務に対して男子と同等の能力を持つ場合には、男子と同等の待遇をなすこと、

(以上 「資料 戦後二十年史4 労働」大河内一男編 日本評論社1966年)

さすがに、「女は家庭に戻れ」と一律解雇を行うことが、悪影響を生み出すとして修正は試みたといえるが、ひどい実態もありえたと想像される。(その輪郭は、「男女高揚機会均等法前史―戦後婦人労働史ノート―」大羽綾子著 未来社1988年に触れられている。)

つまり、男たちは女たちを追い出して、外で金を稼ぎ(この際、自分の為になのか家族のためになのかは置いておくとして)、女たちだけが「家庭に復帰した」というか家庭に追いやられたのだ。そんな男性優位、根本的な所で女性には男性に従属するように国家権力は方向付けをしたのだ。研究者によっては、徴用逃れの女性は喜んで退職したとも書かれていて、女性はこの措置を受け入れたように記載しているが、あまりこの時期の女性の声を明確に記載した史料には出会えなかった。どなたか教示願いたい。

ただ、想像をたくましくしてみると、この時期の日本の女性の意識には、権力者や男性が勝手に(女性には参政権はないから)開戦を決定し、(付け加えるならば、軍部の一部が情報を操作し、国民には暴力をふるい)その気になって戦争を行い又は(騙されたからかもしれないが)戦争に行き、(つらい思いをしたかもしれないが)復員して、あたかも当然かのように職を奪っていく男性、譲らなければならないと考えている「世間」とそれが当たり前だと考えている権力者に対して、言いようのない嫌悪感や批判意識やニヒリズムが醸成されたのではないかと推測してしまう。ポツダム宣言で示された男女が手と手を取り合って、家庭や社会を作り上げていくというのは夢のまた夢のような現実ではなかったか。権力者や男性は、女性に対して今風で言えば、国家レベルでハラスメントをした 「やらかした」と言っていいだろう。もちろん、愛し合って結婚し子供を作った夫婦はいただろう。しかし、大半の男女は「手と手を取り合って、家庭や社会を作り上げていく」家庭を築いただろうか?復員兵のそれなり部分は、戦地で慰安婦やその土地の女性を凌辱していたにちがいない。そんな経験を持つ男性(特に反省しない男性)が、新憲法で解放された女性と手を取り合って共に家庭を、子供を作り育てることができるのだろうか。それよりは、ビジネスという戦場に再び出兵し、子どもや家族のことは女性に丸投げしたほうが楽だ。そもそもそんな男性を相手に女性は妊娠出産をしたいと思うのだろうか。してしまったとしても、そんな価値観や従属する女性像を子供に伝えたくはないだろう。子どもたちもそんなロールモデルを見習いたいとは思わないだろう。価値観は純化伝承する。結婚に求めるもの、結婚の必要性の意義が低まり、求める価値観が高くなるのも当たり前だ。

愛のない結婚を強いられた事例として「逆縁婚」(夫に死なれた女性が、夫の兄弟と再婚する、もしくは強要される)もあり、幸せな結婚であった事例は少なかったとする研究もある。逆縁婚したのに、夫が生きて復員する事例もあり、深刻な悲劇となった場合もある。

復員が本格化してくると、第1次ベビーブームが始まるわけであるが、国会では産児制限計画の必要性について論戦が交わされた。代表的論客であった加藤シズエ衆議院議員は、47年11月10日衆議院予算委員会で片山哲内閣総理大臣に「日本の軍国主義的膨張政策の最大原因」である人口増加を放置せず、国際平和主義の実現のためにも「産児制限の徹底的普及」を求めたが、片山総理は解決すべき課題が多々あるとしてこれを避けた。優生保護法案が上程される年である翌年23年6月15日衆議院予算委員会では、この問題に対する芦田総理大臣の答弁が興味深い。

「…わが国人口増加の前途はどうであるかという問題を考えるときに、やはり専門家の意見によれば、わが国の人口増加はあまり遠くない時期において停止する。場合によっては人口は次第に減少する時期に入るだろうということが有力な意見であると考えておるのであります。…」

「…しかしながら、わが国民の程度に文化の進歩したる国においては、経済的の環境その他の事情を考慮して、国民が自発的に産児制限の問題については相当関心を抱いておる。しからばこの問題は国民の良識に訴えて適当にこれを行うことが、今日においてはむしろいいのであって、ただちに法律をもって産児制限の手段を講ずることが時宜に適するかどうか…」

「しかしながら、法律をもってこれを実行しないということが、ただちに産児制限が国内に行われないということではありますまい。」

以上のように、政府としてはベビーブームがあろうと遠からず日本は人口減少傾向になると判断し、法律での規制ではなく国民の良識に基づく、もしくは民間の運動による産児制限に期待をかけた。悪名高き優生保護法はこの文脈の中にある。この数日後の6月24日衆議院厚生委員会で審議入りした優生保護法(太田典礼外5名提出)は、医師法案(内閣提出)保健婦助産婦看護婦法案(内閣提出)歯科衛生児法案(内閣提出)歯科医師法案(内閣提出)医療法案(内閣提出)といった医療従事者の権限や医療の枠組みを定める法律群の中で審議された。生活困窮により堕胎が横行し、妊婦が命を落としたり後遺症で苦しんだりするのを防ぎ、母体保護の観点から、「安全な」人工妊娠中絶を医師権限も含めて合法化する側面を持って、優生保護法は成立した。(だからといって、優生保護法が認められるわけではないことは明記しておく。その件は別の投稿で)もしかしたら、「望まない妊娠」に対する女性の逃げ道を用意した可能性も否定はできない。

人工中絶や避妊(運動家たちはバースコントロール、避妊が産児制限において優勢になることを望んでいたのだが)は出産抑制においてどれだけの威力を発揮したのだろうか。

「人口問題研究」第78号(1959年12月刊)に対象年代はやや下るが、第1次ベビーブームが急激に終わり、出生率が目覚ましい低下速度を示した昭和30年前半を対象として調査研究された論文がある。

「戦前戦後の夫婦出生力における出生抑制効果の分析―とくに中絶と避妊の抑制効果について」(本多龍雄 https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14208401.pdf

結論を抜粋すると(他にも色々興味深い見解が述べられているので一読の価値あり)

①有意的な抑制が全く解除された場合の昭和33年(1959年)に期待される出生数は、395万人

②同年の実際出生数は、165万人で4割に該当し、残りの6割ちかくの230万人が優位的に抑制された。

中絶効果は120万弱、避妊効果は110万強であるが、避妊手術によらない避妊効果は95万出生該当で、まだ人工中絶が優位である。

まとめにおいては、

「国民一人あたりの実質国民所得が戦前・昭和12年当時のそれをこえるのは昭和30~31年頃であるが、出生抑制のための中絶の濫用もほぼこの頃を絶頂として低下傾向にかわった。その後も出生の抑制は依然として進行したが、その推進力は主として避妊効果に負うこととなった。避妊の普及度が上昇しているばかりではなく、避妊者の避妊効果も改善されつつある。そして出生の抑制における中絶効果と避妊効果とは現在ほぼ半々という状態に達した。中絶か避妊かという抑制手段の差異は必ずしも個々の夫婦の生活態度の明暗を物語るわけではないが、少くとも全国民的現象として観察する場合には、中絶効果の減退績向と避妊効果の増大は今までの出生率低下の窮乏抑制的色彩が漸く染めかえられようとする段階にまできたことを確証するものといつてよかろう。

それにつれて現在まだその半分を敗戦後の緊急措置の形でうめあわせている今日の出生抑制が、そのような中途半端な形のままで国民的習性化してしまう危険もまたきわめて大きいのである。

窮乏抑制の為とは言え、昭和30年初頭で6割近くの出生を抑制していたということは、遡る終戦直後からの5年間に払われた出産抑制力は、期待される出生数を6割以上葬る凄まじい力であり、男性が主導したというよりは妊娠した女性若しくは女性側が中絶になだれ込まなければ成立しない。それは生活のためとはいえ生むのを拒絶した女性の強い意志を感じる。

昭和30年頃を境にして、中絶による出産抑制から避妊による出産抑制に移行するということは、男性の決定を介在しない=男性に期待しない(男は家庭から逃げ出したから)女性優位のバースコントロールが出生抑制を引き起こし、現在まで延々と習性化したと言っていいだろう。このトレンドが、女性に様々な結婚観や人生観、男性観に影響を与えたのは予想できることだ。

埋もれた史料を整理していて本当に心苦しい。自分もこうした男性の一人としてぬくぬく生きてきたと思うからだ。こうした歴史から見ると、そもそも日本の女性は男性や(男性)権力者に対して根本的に信頼を置かないようにと祖母・母親から有形無形の教育と伝承を受けてきているのではないかという気がする。男性は、働くだけの兵士の役割に相変わらずスポイルされ続け、(最近の若い世代は改善されつつあるとは思うが)同年代の女性が身に着けている家事能力(例えば、食事を作る、掃除をする、洗濯をする等)を習得しなくても咎められない。(方や、女性は身に着けていないと奇異な目で見られる)結婚・出産にしてもお互いがお互いを思いやり委ねる相手がいないと成り立たない。情けない男性しかおらず、それに居直る男性しかいないならば、結婚や出産は成立するだろうか?

「少子化」の背後には、多数の未婚女性(ついでに言うと未婚男性)がいるのだが、どちらも先ず結婚の動機づけが働かない。何故なら特に女性に男性への信頼感がないからだ。信頼と尊敬が基礎にあって婚姻(法律婚・事実婚どちらも)が成立する。婚姻に熱意がないのは、両性間に信頼と尊敬がないことの証左だ。先ずこの問題に向き合い国家機関側がこの総括と謝罪でもおこなわない限り、どの対策も単なる小手先の対策に終わるだろう。

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