前回終わりに、児童虐待防止か少子化問題を取り扱うことを書いたが、追加して、自分が所属している知的障害福祉特に入所施設(地域移行)についても取り扱おうと思う。
どの問題も、時間をかけて表面化し様々な海外の取り組みや思想を吸収しながら「改善」や深化していっているように思われる。担い手のどの実践も理念も立派なもので、学ぶべきものばかりだ。しかし、どの問題も歴史的な検証が不十分なため、本質的な問題解決に至っていないように思う。そのため制度として、社会的な取り組みとして飛躍的に改善されてきているというよりは、問題が複雑化し遅々として進んでいないようにも見受けられる。

自分なりには、この3つのテーマは密接に深いところで関連しあっていると考えている。そして、その深いところである意味「闇」を抱えている。

取り急ぎ、結論の一部を述べると

児童虐待防止も知的障害者の入所施設の在り方も、戦前からの少年法や児童保護事業の根底にある治安維持的な考え方や制度設計(追加するならば、無意識に浸透している根性論やその背景としてある軍隊的な考え方)を根本に組み立てられている。その負の遺産に向き合い、清算をしていかないと制度改革は魂のないものなってしまう。
②少子化問題の大きな要因として、若年層の経済的な問題があるのは事実だが、根本的には、終戦直後からねじれてしまった日本における男性・女性の関係性に大きく起因すると思われる。くだけて言えば、歴史的に終戦直後から、日本の男性権力者や男性陣は女性に対して「やらかして」しまっていて、そのことに対しておそらく反省はない為、終戦直後日本社会は男女平等を実現する大きなチャンスを逃がしたと思われる。

先ずは、知的障害福祉と入所施設について、数回書いてみる。

日本における、近代的な知的障害福祉は、1891年10月濃尾地方の大震災を契機に始まった。当時立教女学院の教頭でクリスチャンであった石井亮一が、震災で孤児となった少女20人余りを引き取り、「孤女学院」を創設。家庭的・経済的に恵まれない女児に普通教育を施し、自立させることを目的とする女学校に近いものだったが、その孤児の中に、たまたま知的障害のある女児がおり、当時の日本において、知的障害児の教育・処遇についての研究はまったく行われていなかったため、亮一は、2度にわたり渡米し、米国各地の大学・図書館で研究に勤しみ、知的障害児教育の学祖エドゥワール・セガンの未亡人から生理学的教育法を学び、ヘレン・ケラーとも会見し、知的障害や特殊な障害についての見識を深め、帰国後、「孤女学院」を滝乃川学園と改称・改組して日本で初の知的障害者教育の専門機関を開設した。(1897年)

昭和9年10月に日本精神薄弱児愛護協会が石井亮一らの尽力で設立。ここに知的障害福祉の組織的な活動・運動の歴史が始まる。昭和13年7月愛護協会は「精神薄弱児保護法の制定促進並びに保護施設の拡充に関して」厚生省社会局長を要望。(それに対する保護対策については後述)

石井亮一の精力的な活動と尽力に続き、徐々に精神薄弱児保護施設(精神薄弱児収容施設)は、民間の社会事業家によって開設。その数は、昭和12年10月段階で、全国に13施設、収容定員395名に対して収容児童数365名と極めて少数で、国や都道府県の経営するものはなかった。石井を初めとして、様々な社会事業家が愛護協会を先頭に精神薄弱児の福祉に尽力奮闘した。

大体、ここまでが我々が正史として教えられる内容だ。

こうした正史を我々は現在の時点から想像して受け取ってしまいことが普通だ。しかし、当時の実態を紐解くと全然違う様相が見えてくる。

以下、引用する史料には、歴史的な限界から、はなはだ差別的、ヘイト的な用語・内容が書かれている。当時の実態を正確に把握するために、歴史的な資料として紹介するもので、私の考えではない。)

昭和13年1月に、当時の陸軍大臣寺内寿一の提唱に端を発し、国民の体力向上、結核等伝染病への罹患防止、傷痍軍人や戦死者の遺族に関する行政機関として、内務省から衛生局及び社会局が分離される形で、厚生省が設置された。児童に関する福祉的な課題は、「児童保護事業」と一括され、厚生省児童課が統括した。

昭和14年2月に児童課初代課長であった伊藤清は、社会事業叢書第6巻「児童保護事業」を著している。その第6章「精神薄弱児保護事業」において伊藤は、先ず対象者を以下の三つに分類する。(以下差別的な用語なので、「」に入れて使用する。)

「白痴」(IQ25以下 Idioten)
成人に達するも6歳以下の精神発達程度
極めて簡単な具体的概念を極少数有するに過ぎない
日常生活において自己の身の身のまわりの処置すら極めて困難
感情は肉体的な感情があるばかりで、転換しやすく、筋力は一般に薄弱
遺尿、大小便の失禁も縷々見られ、癲癇性麻痺発作が往々起こる

「痴愚」(IQ25-40 Imbezilität)
成人になるも13歳以下の精神発達程度
具体的概念は多少多く有し、簡単な判断はできるが抽象的な概念は甚だ少ない
日常生活では外界の刺激に反応するのみで、継続して作業ができない
感情は転換し易く、肉体的感情が旺んで、虚言多く残虐性に富むものも少なくない。往々にして犯罪行為をする者が多い

「魯鈍」(IQ40-70 Debilität)
成人になっても大体思春期の終わり18歳くらいの程度に留まる
抽象的な概念も相当多くあるが、通常人の域には達せず、複雑なる概念の分化、複雑な事象の理解は相当劣る
感情は変転性に富み、高等感情は未発達で道徳的情操に乏しい。従って、自己の行動を道徳的に制御できず、性的犯罪や他の犯罪行為に陥るものが少なくない

*ちなみに、この三分類の用語は、戦後1960年精神薄弱者福祉法成立の際においても踏襲され、使用されている。(「精神薄弱者福祉法 解説と運用」(厚生省社会局更生課編集 1960年 P20)

このブログの読者の皆さんにも、知的障害者に対する3分類のような見方はないだろうか?それは、はるか戦前にその原型があるのだ。

「…精神薄弱児は知能、意思、感情の精神作用に於ても薄弱であるから、容易に悪癖に染まり易く、而して一度悪癖に染まれば仲々之を脱することが出来ない。又、感情に於ても些細な事に怒り易く怒れば之を抑制する能力なく、従つて殺人、放火等の凶悪なる犯罪を平気で行ふものである。故に、彼等を放置すれば、或は犯罪者、不良少年、醜業婦、浮浪者となり社会生活を脅かし社会の安寧を阻害すること幾許なりや計り知れぬのである。而して、精神薄弱児中最も重症なる白痴は、犯罪行為をなす能力すら無く、反社会的行為を為すものは寧ろ軽症の痴愚、魯鈍に多いと謂われてゐる。」

本書では、満14歳以下の児童総数約2500万人に対して、全国就学児調査や学者が行った推計調査から、2~3%が精神薄弱児と推定して、約75万人と推計している。その内、「白痴」は0.1%程度それ以外を「痴愚」「魯鈍」としており、精神薄弱児問題は、ほぼ中軽度者の反社会的行為や犯罪行為の防止にあった。

ちなみに、令和3年度人口調査で18歳未満の人口は1805.5万人に対して、18歳未満の知的障害児は22.5万人 1.2%である。

「而して精神薄弱児は精神的不具者であるから其の重症の白痴如きは固より、比較的軽症なる痴愚、魯鈍に於てすら、之を医学上治癒せしめて普通児となすことは殆ど不可能に近く、只教育に依つて其の反社会性を或程度迄矯正し正し或は簡易なる職業を授けて或程度迄生活の途を得しむるに過ぎない。」

とし、全国感化院調査を引用し、調査人員689名のうち「低能」42.7%と反社会的行為の背景に「知的な低さ」を示唆している。

*ちなみに、精神薄弱者については調べた結果としては明確な統計は確認できなかった。当時保護を要する成人を救済するのは救護法の役目だった。救護法の対象は、①「65歳以上の老衰者」②「13歳以下の幼者」③「妊産婦」④「不具、廃失、疾病、傷病其の他精神又は身體の障碍に因り労務を行ふに故障がある者」⑤「幼児哺育の母」であり、要救護者一括りに扱われていたと思われる。(ご教授していただけたら幸いである。)

「精神薄弱」という用語は、戦前において、「知的な遅れ」のやや差別別な表現どころではなく、「知能・意思・感情の薄弱による反社会的行為をなすもの」というニュアンスを持つレッテルだったのだ。

もちろん、比率の多さを見ると、「痴愚」「魯鈍」とみなされる者が本当に現在の「知的障害」で分類される発達期の脳の発達不全を持っていたかどうかは疑わしい面がある。貧困やそれによる教育からの長期にわたる排除による低学力の可能性も否定できないからだ。

厚生省は、問題に取り組む愛護協会をはじめとした社会事業家とよく協議をしていたと思われる。施設数等も「児童保護事業」の中で詳細に述べられているからだ。伊藤清の社会事業叢書第6巻「児童保護事業」によれば、精神薄弱児保護事業として以下の対策を提案している。

(一)精神薄弱児保護法の制定
(二)白痴院(遅鈍性白痴の収容保護)
(三)精神薄弱児治療教育院
   (イ)第1種(犯罪行為を伴わざる痴愚及び魯鈍の治療教育保護施設)
   (ロ)第2種(犯罪行為を伴う右の者の治療教育保護施設)
(四)児童精神病院(興奮性白痴及び変質性痴愚の保護治療施設)
(五)精神薄弱児学校(軽度の精神薄弱児の職業教育並に治療教育施設)
(六)精神薄弱児特別学級(同右の学級)*本ブログでは上記(五)
(七)精神薄弱者村落(成人せる精神薄弱者の生活擁護の為)
(八)院外保護(社会生活を営む軽度の精神薄弱者の保護、並に未収容重症者の保護)
(九)児童教養相談所(精神薄弱児の診断並に保護施設との連絡)

これらのプランは、きめの細かいプランであるが、中軽度者の職業訓練及び治療や教育による犯罪防止対策というテーマに貫かれているのは一目瞭然だ。そして、収容し医療を持って矯正するという思想、中軽度者が犯す犯罪、社会的害毒から社会を守る社会防衛論が見て取れるだろう。

その対策を列挙した後、「児童保護事業」では
「尚、此の外、精神薄弱者の遺傳性に鑑み優生學的見地により断種法の運用も必要であると考へられる。」と提言している。
実際、昭和15年(1940年)第75回帝国議会で政府は悪質な遺伝性疾患の素質を持つ国民の増加を防ぐ目的で国民優生法を提出し、成立させている。(これについては後述)

これが戦前の実態であり、戦後の知的障害福祉(行政・立法)はこれを継承し、制度を発展させてきた。
次回、戦後この流れはどのような変遷をたどるか見ていこう。

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