現在の児童相談所が主導する虐待防止システムとは異なり、戦前の虐待防止システムは、地方長官(知事)を指揮責任者とし、警察・学校職員等と協力しながら、方面委員・民間団体が地域の被虐待児を発見保護していくシステムであった。児童虐待防止法は、昭和16年まで実績値を確認できているが、その後日本は太平洋戦争に突入し、どのように戦時下運用されたかは不明である。ただ、以前の投稿で明らかにしたように、終戦直後の混乱期、戦争孤児9万人程度は、近親者等に言われない差別、虐待を受けていたと推定されるとしたが、法的にそれに意味することは、児童虐待防止法によって9万人にものぼる被虐待児を保護することはできなかったし、むしろ虐待の事実は闇に潜むように取り扱われたと言っていいだろう。
戦前には、児童相談所のような機関は存在しなかった。戦後、児童福祉法の制定とともに中軸の専門機関としてたちあがってきたのである。「無から有は生じない。」何等かの下地があり、それが突然合理性を持ち形を成したから、児童相談所という機関が現在まで続いていると考えるのが妥当だ。
いつもの通り、当時の原史料に当たるのが一番である
初期の段階での国の児童福祉法の解説本は、二種類ある。一つは、「兒童福祉法」(財団法人 日本社會事業協會刊 厚生省兒童局企画課長 松崎芳伸著 昭和22年12月 以下、昭和22年版と呼ぶ)であり、児童福祉法制定後の政府側の解説として最も早いものとも思われる。もう一つの種類は、「兒童福祉法の解説」(中央社会福祉協議会刊 厚生省児童局企画課長 川嶋三郎著 昭和26年9月 以下、昭和26年版と呼ぶ)、そして、数か月遅れで、「児童福祉法の解説と運用」(時事通信社刊 厚生省児童局長 髙田正巳著 昭和26年11月)がある。おいおい述べるが、この解説本の間には、社会福祉事業法の公布・施行(昭和26年3月)が挟まれており、各市町村に福祉事務所を設けることが定められた。従って、昭和22年度版は、福祉事務所制度のない法律体系を解説しており、制度の原初形が確認できる史料である。昭和26年版は市町村に福祉事務所が立ち上がった時点での解説であり、現行システムの枠組みを解説している史料と言える。
児童相談所の出自を考える上で、昭和22年版から見ていこう。第1章「本法が出来るまでの兒童福祉事業」(浮浪兒對策)の項で、次のように解説している。(旧字体はこの際新字体に改めている。また差別的な用語は歴史的資料としてそのまま記載している。)
第二次世界大戦とそのみぢめな敗戦の結果は、ストライキの流行、パンパンガールの横行とともに上野の山を代表とする浮浪児、戦災引揚孤児の問題を提供した。政府は、この問題に対して、種々の行政的施策の手をうってきた。昭和21年4月25日の社発第387号社会局長通牒は、「浮浪児その他の児童保護等の応急措置」として、社会事業主務官公吏、少年教護院職員、少年教護委員、方面委員、社会事業団体職員、警察官吏等を活用して、浮浪児の発見、保護につとめること、必要な場所に児童保護相談所を設けること等を奨励している。更に、同年9月19日には、厚生次官は、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、福岡の七大都府県長官宛に、「主要地方浮浪児等保護要綱」を示した(発社第115号)。これによって、京浜地方、京阪神地方及びこれら7大都府県に浮浪児保護委員会が組織せられることとなり、更に浮浪児の蝟集する地域における関係職員による「一斉発見」が奨励せられ、発見された児童の保護のために、一時保護所、児童鑑別所、児童収容保護所が、国庫の補助の下に作られた。(注1、注2)
注1、2において、一時保護所、児童鑑別所、児童収容保護所の名称、住所が明らかにされている。それを一つにまとめたのが以下の表だ。(同一住所は、黄色でマークしている。)
これを見れば明らかだが、児童鑑別所・一時保護所・児童収容保護所はほぼ一体的に運用されていることが見て取れるだろう。この「浮浪児保護」は、以前「入所施設、児童虐待、少子化をつなぐもの② 戦争孤児に知的障害児はいたのか 」において指摘した通り、実際は「浮浪児の狩り込み」であり、「浮浪児」の人権を無視した収容や親族に引き取らせることで9万人にものぼる児童虐待を引き起こしたと思われる強引なものであったことを指摘したが、これを行った担い手は、児童虐待防止法の理念であった被虐待児の保護という理念は後景に追いやって、「非行少年」「犯罪少年」としてとにかく処理することに躍起だったと見て取れるのだ。戦後混乱した社会情勢、膨大な戦争孤児を「処理」するシステムとして、、少年教護法の治安維持的な側面を選択したと言える。
第5章第3節「児童相談所」では、沿革や設置等が説明されている。説明されている「沿革」「設置」部分を抜粋すると
(沿革)
児童相談所の構想は、鑑別機関と密接な関連を持つ。少年教護法には、「少年教護院内ニ少年鑑別機関ヲ設クルコトヲ得」(第4条)という設定があり、これにもとずいて昭和18年(1943年)4月には、全国に22の少年鑑別機関が設けられた。(注1)…児童相談所は、さらに児童の健康相談の面において、全国675所の保健所網と密接な連携を企画している。
(設置)
児童相談所は、都道府県がこれを設置する。これは、都道府県の義務である。(第15条第1項)設置は、教護院、保健所等への附設であってもさしつかえない。
「児童相談所には、必要に応じ、児童を一時保護する施設を設けなければならない。」(第17条)児童相談所には、孤児、棄児、浮浪児、不良少年等の要保護児童を鑑別して、夫々の措置をとるまで、これを一時収容保護しておく必要がある。「一時保護する施設」は、こういう児童を一時的に保護宿泊させる施設である。それは、児童相談所と別棟の建物であっても、所内の一区画であってもよい。
沿革の注1として掲載されている少年鑑別機関の一覧が以下の表だ。
東京都中央児童相談所の住所と東京都立少年鑑別所の住所はほとんど同じ(google mapで検索してみたら目と鼻の先だ)、愛知県では愛知県少年鑑別所は児童収容保護所である鹿子寮に併設されていた。
児童福祉法においては、「教護院は、不良行為をなし、又はなす虞のある児童を入院させて、これを教護することを目的にする施設とする。」(第44条)とした上で、児童福祉法施行令において
第10条 都道府県は法第35条第1項の規定により、教護院を設置しなければならない。
国は、教護院を設置し、児童相談所において病的性格による等性状が特に不良と鑑別された児童を入院させるものとする。
と少年教護院を「教護院」に再編した。つまり、少年鑑別機関を分離させ、児童相談所としたと推定されるのである。
つまり、児童相談所の原型は、戦前から存在した少年教護法における少年鑑別機関と「浮浪児狩り」を推進した一時収容保護施設の寄せ集めであり、それを活用して「児童相談所」に再編したと思われる。しかし、国はこの点を明言していなし、前述の(沿革)の部分では少年鑑別機関との関連を暗に示しつつも明言を避ける表現となっている。
大原社会問題研究所雑誌No.573掲載の論文「児童相談所の組織構成の成立過程 -三部制の導入をめぐって」(岩永公成)(インターネットで閲覧可能)において、GHQのPHW(公衆衛生福祉局)の要請で児童福祉顧問として国連社会活動部から派遣され、1949年12月ー1950年8月まで全国14か所の児童相談所を調査し、1950年3月大阪・福岡・宮城の児童相談所を現地指導したアリス・キャロルの報告書を次のように引用要約している。
1月報告書
現在、児童相談所職員は自分たちが理解していると感じていることだけに没頭しており、それは心理検査と心理学的研究である。後者は明らかに、公的福祉という枠組みにおける児童福祉サービスの主たる機能ではない。
2月報告書
児童相談所の目的は「心理学的研究または事業」に取り組むことであると、しばしば所長に表明された。大多数の所長が、「児童福祉サービスに関心がなく、それはさまざまな心理学的検査を終え、児童が最終的に措置された施設の仕事である。」と主張した。
こうした児童相談所の実態は、その出自が少年鑑別機関であると考えれば、必然的と言える。キャロル女史の尽力や厚生省の様々な制度改革によって、児童相談所は曲がりなりにも措置・判定指導・一時保護の三部制が導入されたが、本当に児童に寄り添う専門機関となったのか?短期間で少年教護法からの体質が克服されたとは考え難い。
児童福祉法は、最初「児童保護法」として検討され、「暗い」イメージが付きまとうため、児童「福祉」法と明るい未来の希望が持てる名称に改変したとされている。その点からも、「児童相談所」という中核的な機関が実は治安維持的な犯罪少年等を扱う福祉サービスとは縁遠い機関を基礎に作られたことを国民に明示したくなかったのだろうか?専門家の方々の回答を待ちたいところである。
昭和26年版や数ヶ月後に出版された「児童福祉法の解説と運用」(時事通信社刊 厚生省児童局長 髙田正巳著 昭和26年11月)においては、前述の痕跡を残すような記述もなく、児童相談所はもはや児童福祉の所与の中核的な機関として記載されている。しかし、9万人にも上ると推定される戦争孤児に対する児童虐待に対して、キャロル報告書のような体質では、何ら有効な手立てを打つことは出来なかったと思われる。
昭和26年版の第3章「児童福祉の機関」において、社会福祉事業法によって市町村に義務付けられた福祉事務所と児童相談所の関係について次のように記載している。
(一)福祉事務所が積極的に外に働きかけてケースの発見に努めるのに対し、児童相談所は原則として持ち込まれたケースの処理に当たる。
(二)福祉事務所が主として家庭環境の調整等を中心とした児童問題を扱うのに対して、児童相談所は主に児童の資質、人格に根差したスペシフィック・ケースを取扱う。
(三)福祉事務所も児童相談所もともにサーヴィス機関であるから、一般国民が便利なように、相談並びに通告は両機関ともその窓口を開き、受付けた後に、ケースを取り扱いの難度の程度により分類して、ジェネリック・ケースは福祉事務所で、スペシフィック・ケースは児童相談所で処理することとしている。
(四)又、児童相談所がいわゆるケース・ワーク(個別処遇)の機関であるのに対して、福祉事務所はそれ以外にグループ・ワーク、コミュニティ・オーガニゼーション(地域社会組織化運動)等広く積極的な児童福祉の分野を担当する。
児童虐待の分野で考えれば、地域における虐待ケースの発見は制度的に立ち上がったばかりであった福祉事務所の任務であり、これは戦前児童虐待防止法の方面委員と民間団体による発見の体制を引き継ぐものであったはずである。児童相談所は、少年教護法からの引継ぎで非行少年等を教護院等に送致することには実績はあったとは言え、積極的に児童虐待に関与する実績を持たない存在であり、児童の人権保護からかけ離れた存在であったと見なしていいのではないだろうか。そんな存在に課題克服がなされないまま(つまり体質改善がなされないまま)児童虐待防止の役目を一身に負わせたらどうなるか、それが今のが児童虐待が阻止できない背景にあるのではないか。戦前のシステムを踏まえるならば、強化テコ入れしなければならないのは、児童相談所ではなく、福祉事務所が警察・学校職員等と協力しながら、民生委員・児童委員や民間団体と連携して早期発見・対応できる地域の防止システムとそれを支える人材補強なのだ。