3月「社会福祉法人を考える」シリーズを書き起こし始めて、とりあえず今回で一区切りをつけようと思う段階にきた。書き起こす前段階で、社会福祉事業法から社会福祉法に改正された国会審議を一通り見ておこうと思い、国立国会図書館HPにある国会会議録検索システムを検索し、平成12年(2000年)第147回国会における社会福祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する等の法律案(内閣提出)に関する両院の審議録を整理してみた。この作業が、ドツボにはまり、衆議院本会議・厚生委員会議事録を全部コピーして体裁を整えて、A4で199ページ。参議院本会議・国民福祉委員会議事録に至っては、A4で210ページ。(MS P明朝11フォント)と膨大で、論点も多岐にわたる内容であるが、これはこれで一つのシリーズが書けそうな史料である。参加者も、衆議院厚生委員会には発言こそほとんどないが、元総理の安倍晋三氏(故人)や一億総活躍大臣で名を馳せた衛藤晟一氏が理事を務めていたり、参議院国民福祉委員会では、理事として現日本共産党書記局長の小池晃氏が、委員として歌手・女優でもあった沢たまき氏やタレントの西川きよし氏が活発な審議を務めたという点が目を引く。この法案審議は、いわゆる「措置(費)制度」(このブログでは、措置委託制度)から利用契約制度に大転換することの是非を頂点に様々な論点が飛び交った審議だ。措置委託制度と利用契約制度については、別の機会に譲るにして、この国会審議も少しつまみながら、シリーズのとりあえずの締めを書き起こしていきたい。
これまでの投稿で、平成28年(2016年)3月に可決された改正社会福祉法における、社会福祉法人改革についての根拠となった「社会福祉法人の公益性と非営利性」について、歴史的に見て事実に基づかない論拠であることを示してきた。しかし、例えば、その一年後の「福祉新聞」1月2日号では社会福祉法人改革の特集が組まれ、新春インタビューにおいて、改正法の指揮を執った塩崎厚生労働大臣は、改正の狙いを「この間、福祉ニーズの変化や昨今の社会福祉法人の運営に対する指摘などを踏まえて、社会福祉法人の公益性や非営利性をさらに徹底するねらいがあるのです。」と語っている。また、全国老人福祉施設協議会の石川憲会長も「それを受けた今回の改革は、社会福祉法人が持つ公益性と非営利性、 担っている役割を改めて国民に理解してもらうことが目的だと受け止めている。事業運営、財務運営、 組織運営の全般にわたる大きな改革だが、まずは改革の内容を正しく理解し、各法人がコンプライアンスとガバナンスを確立し、公益性を担保する組織づくりを行わなければならない。」と述べており、社会福祉を牽引するリーダーたちは、社会福祉法人=公益法人という視点からガバナンス改革を支持したのである。このガバナンス改革が怪しげな歴史的事実と危うい論理の上に成立している点もこれまで述べてきた通りである。
シリーズ内で明らかにしてきた歴史的事実や考え方をふりかえってみたい。
① ドラッガー自身の語った言葉を丹念に追っていくと、社会福祉法人の経営理論としてよく喧伝される「非営利組織」論は、公的給付に依存している社会福祉法人には適用できず、むしろ「公的サービス機関」論を適用すべきであること。その際、社会福祉法人は、自らのミッションに対して厳しく結果に対する監査を受け入れる必要があること。そして、社会福祉法人に「非営利組織」論が適用しようとする試みの背景には、自ら及び識者が社会福祉法人を非営利公益団体と認知しようとしているからとも指摘した。
② 歴史的な行政資料や解説本を紐解いていくと、社会福祉法人は「公益性」「非営利性」を本質とするのではなく「公共性」「純粋性」を本質とする公益法人とは異なる特別法人として誕生したのが歴史的事実である。
③ 社会福祉法人、社会福祉事業は、憲法第89条に根拠づけられるものではなく、憲法第25条によって十分説明がつく、憲法第25条に根拠を置くものであること。憲法第89条は、公金濫用禁止という目的以上に、戦後日本を非軍事化(軍事優先の否定、軍事優先潮流の復活防止)、日本国憲法体制を財政的な側面から支える条項であったことも示した。
④ 政府が社会福祉法人や社会福祉事業を憲法89条によって根拠づけることに固執しているのは、その方が慈善事業体・公益団体や篤志家からの事業動員を図ることが容易だったからである。しかし、その負の側面として、公的委託助成に依存する体質を生み出し、民間社会福祉事業の独立性、自立性を育むことに大きな課題を残した。社会福祉施設の建設後の建て替えについて本来は社会福祉法人自身が自ら資金調達のために長期的に計画をする等経営手腕が問われるにもかかわらず、そのような自立した経営者を育てることに成功したとは言えない。
⑤ 従来から、保育所経営者を中心に小規模、家族経営の事業体が多くを占めており、厚生省はこうした多くを占める小規模事業体をせめて社会福祉法人化して経営を安定化させようとしてきた。しかし、近年こうした行政指導を「一法人一施設」「施設管理モデル」モデルと断じて、公益法人化しようとする政策誘導の「根拠」として活用する経緯があった。
⑥ 業界団体や識者も社会福祉法人改革において、歴史的事実と異なった社会福祉事業=公益・慈善事業論を展開し、主導したのもあったためか、公益法人モデルでの社会福祉法人改革が行われることとなった。
⑦ 社会福祉法人の公益財団法人モデルでのガバナンス改革では、以前モデルにした私立学校法のような帰属財産の譲渡制限や私学審議会のようなシステムを伴わないため、理事長等による評議員等人事決定による独裁が進むリスクがますます顕在化している等々
その上で、Looker-onがこれまでの「社会福祉」についての様々な学説等を検討したり、「社会福祉」をめぐる歴史的な経緯を整理したりした上で、次のように論を展開した。
「これまで、「社会福祉」とは日本国憲法においてはじめて定立された法律用語であり、それは「制限能力者も含めて全主権者が、最低限憲法に定められた基本的人権の実現・行使が保障される」状態であることを示してきた。従って、社会福祉事業とは「制限能力者も含めて全主権者が、最低限憲法に定められた基本的人権の実現・行使が保障される」社会を実現する事業であり、ミクロ的には権利侵害されている個人(クライアント)の救済及び権利行使ができるエンパワメントであり、メゾ・マクロ的に言えば、「最低限憲法に定められた基本的人権の実現・行使が保障される」生活環境や地域社会の創出が目標となるものである。「公共の福祉」とは、「最低限憲法に定められた基本的人権の実現・行使が保障」され、全主権者がその社会の恩恵を享受している状態と言い換えてもいいだろう。この「公共の福祉」の実現のために社会福祉事業は存在しているのであり、それ故本質として「公共の福祉」の実現を目指す「公共性」を属性としているのである。ミクロ・メゾ・マクロを統一的に把握し、解決策を探っていく方法論としては、現在「人間と環境の相互作用」によって生活課題が発生するとするソーシャルワークが有効であり、そのソーシャルワークは本質的に民主主義を求めている。従って、社会福祉事業を行う支援者集団は、クライアントや社会に対してはソーシャルワークを、組織内的は民主主義的秩序の構築が要請される。これは両輪の輪のようなものである。支援者集団内が、一部の人間による専制的、独善的で他の支援者の権利を抑圧する組織であるならば、外に向かって権利擁護を行えるだろうか?ここに、社会福祉事業において、運営の民主化が求められる原理的な理由があると考えている。我が国の場合、社会福祉事業は是非はともかくとして、公の独占事業としなかった。しかし、「制限能力者も含めて全主権者が、最低限憲法に定められた基本的人権の実現・行使が保障される」社会の実現は、主権者の権利でもあれば、義務でもある。ここに民間においても社会福祉事業を担う理由があるのである。また、社会福祉法人は「公共の福祉」の実現に向けて、事業を拡大し、社会・地域の変革を担っていかなければならず、そのためには事業の拡大もいわゆるミッションとして組み込まれなければならないのである。また、現場の支援集団が、社会福祉事業に熱心に取り組めば取り組むほど、ソーシャルワーク的な価値観や倫理観が求められる。その度合いにより、同僚・上司との人間関係、法人内のルールにおける職場内や法人内の非民主主的な要素が際立ってきてしまう。ここに矛盾や葛藤が生じ、組織は変化向上していくか、支援者集団が燃え尽きてしまうかするのである。」
改めてまとめると、Looker-onの考えでは、社会福祉とは、制限能力者も含む全主権者が最低、基本的人権を保障行使できる状態(社会的な幸せ)という「状態」概念であると定義づけた。最低ラインを基本的人権に置いたのは、日本国憲法における「基本的人権」について、以前も紹介した金森徳次郎(1946年6月憲法担当国務大臣に就任)の解説に基づくものである。
「この憲法は、いわゆる近代的権利にたいしては三つの態度をとっているのである。
第一には、非常に明確なものは憲法の上に取り上げている。たとえば、勤労の権利、生活の権利とか両性の基本的平等とかは、これに属する。
第二に、権利の方向はだいたい承認されているけれども、まだ具体的な程度においては、国民の間に成熟していないようなものについては、これを立法の指導原理として取り入れている。たとえば、社会の福祉、社会保障の如きがこれであって、これは、国家はすべての生活部門においてその発達につとめなければならないという義務を規定しているけれども、その内容は憲法には必ずしも明瞭に示されてはいない。
第三のものとしては、まだ十分に国民の間に一致をえていないような権利、または時代とともに動きゆくであろうとおもわれるような権利については、この憲法は自らこれを規定しないで、法律などに譲っているのである。たとえば、家族制度の規定、母性の尊重の規定、八時間労働の規定とかいうものはこれに属する。」(「新憲法の精神」1946年より)
国民が保障されるべき人権の中で、日本国憲法においては国民全体で社会的に合意一致がなされている権利を「基本的人権」としているのである。それ故に、時代が変遷し、人々の権利意識が向上していくと、保障されなければならない人権の水準も変化していく。日本国憲法に書かれていないからその権利がないのではなく、社会的合意には至っていないから明記されていないために、法的保障がなされていないだけなのだ。
*賢明な読者なら、Looker-onが何を想定しているか察しが付くとは思うが、LGBTや同性婚についての議論にはこの視点が不可欠と思っている。
この視点に立てば、人権・権利保障の度合いは社会発展によって変化するし、人権・権利侵害の在り方も社会発展やテクノロジーの発展によって形態や侵害される対象者は変化する。ここに社会福祉の増進と言っても、多様で複雑極まりないものとなるのであり、それを増進する「社会福祉事業」といってもそもそもの社会福祉が複雑化する中で、その内容や形態も複雑になり、一概に定めることができないとして、法律において列挙主義を採用してきた理由が妥当性があると考えている。抽象化すれば、「制限能力者も含めて全主権者が、最低限憲法に定められた基本的人権の実現・行使が保障される」社会を実現する事業」となるが、その内容については厳密な審査が必要であろう。
また、社会福祉事業を主権者の権利であり義務と位置付けた故に、公的社会福祉事業も民間社会福祉事業の関係も演繹的に導き出されていくとも思っている。
しかし、平成12年(2000年)第147回国会における社会福祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する等の法律案(内閣提出)に関する両院の審議において、以下のような視点で社会福祉を議論することはなかった。
実際、社会福祉法に関する解説本において、「社会福祉」は以下のように考察されている。
長文となるが、引用しておくと
「社会福祉法の解説」(社会福祉法令研究会/編集 編集代表 古都賢一 名古屋大学大学院法学研究科助教授 中央法規 2001年平成13年)
第3編 社会福祉法逐条解説
3 「地域における会社(地域福祉の推進」(p58-60)
(1) 地域における「社会福祉」という概念
平成十二年改正でもう一つ注目すべきことは、「地域福祉」という語が初めて法律上用いられた点である。条文上は「地域福祉」とは「地域における社会福祉」という定義となっているため、そもそも「社会福祉」とは何か、 という点について説明が加えられなければならない。
「社会福祉」という語の定義については諸説存在しているところであるが、この定義について考えるうえでは、 「社会福祉」というものが、何らかの「手段」(施策等)を指す概念なのか、それとも何らかの「状態」(目標)を指す概念なのか、両方を併有する概念なのか、といった視点でとらえることが有効ではないかと思われる。
「社会福祉」を「手段」的な概念としてとらえて定義を試みている例としては、昭和二十五年の社会保障制度審議会勧告があげられよう。社会福祉事業法の制定の約半年前に出されたこの勧告(「社会保障制度に関する勧告」(昭和二十五年十月十六日))においては、「社会福祉」を社会保障の一部としてとらえたうえで、「第4編 社会福祉」において、「社会福祉とは、国家扶助の適用を受けている者、身体障害者、児童、その他援護育成を要する者が、自立してその能力を発揮できるよう、必要な生活指導、更生補導、その他の援護育成を行うこと」としている。
しかしながら、我が国の最高法規である日本国憲法が、その第二十五条第二項(「国は、すべての生活都面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」)において用いている「社会福祉」は「向上及び増進」の対象としてとらえられており、この点を考慮すれば、「社会福祉」という語が、少なくとも何らかの「状態」を指す要素を有していると考えることが適当であろう。
このように考えると、「社会福祉」という語は「状態」的な概念と「手段」的な概念を併有しているものというべきであり、「各個人及び個人の集合体である社会の幸福を達成することを意図する施策一般を指すと同時にそれらの施策が達成しようとしている目標を指す概念」というように定義できるものと考えられる(日本社会福祉実践理論学会編「社会福祉基本用語辞典」(平成八年) における岡本民夫による説明を参照)。
それでは、「各個人及び個人の集合体である社会の幸福」「それらの施策が達成しようとしている目標」とは、具体的にどのような内容を有するものなのか、が次に問題となる。この点に関しては、平成十年に出された中央社会福祉審議会社会福祉構造改革分科会の「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」(平成十年六月十七日) において、今日における、あるべき「社会福祉」の目的について次のような記述をしていることが参考となる。
「成熟した社会においては、国民が自らの生活を自らの責任で営むことが基本となるが、生活上の様々な問題が発生し、自らの努力だけでは自立した生活を維持できなくなる場合がある。」
「これからの社会福祉の目的は、従来のような限られた者の保護・救済にとどまらず、国民全体を対象として、このような問題が発生した場合に社会連帯の考え方に立った支援を行い、個人が人としての尊厳をもって、家庭や地域の中で、障害の有無や年齢にかかわらず、その人らしい安心のある生活が送れるよう自立を支援することにある。」
この記述を参考にすれば、今日における「社会福祉」の定義は、次のようなものとなる。
「社会福祉とは、自らの努力だけでは自立した生活を維持できなくなるという誰にでも起こりうる問題が、ある個人について現実に発生した場合に、当該個人の自立に向けて、社会連帯の考え方に立った支援を行うための施策を指すと同時に、家庭や地域のなかで、障害の有無や年齢にかかわらず、当該個人が人としての尊厳をもってその人らしい安心のある生活を送ることができる環境を実現するという目標を指すものである。」
社会福祉を「社会の幸福」状態と定義したにもかかわらず、その対象者を貧困に陥っている階層・個人で救済を受ける者と限定してため、「自らの努力だけでは自立した生活を維持できなくなるという誰にでも起こりうる問題」が降りかかった個人に広げた点では、前進した面があるが、あくまでも問題を抱え込んだ個人を取り巻く環境の回復実現といったセイフティネット・ワンポイントサポートであって、その救済が何故「社会の幸福」につながるのか明確ではない。むしろ、「制限能力者も含めて全主権者が、最低限憲法に定められた基本的人権の実現・行使が保障される」社会の実現する活動とした場合、個人の救済も地域等の環境の向上等様々な活動事業が幅広く社会福祉の増進につなげることができるのではないだろうか。まして、自ら社会的に妥当な判断をし、表現することに困難性を抱える知的障害者や認知障害者が幸福でなければならない根拠はどこにあるのか?それは、抽象的な「人間」だからではなく、日本国憲法において主権者としてその位置を法的に保障されているからである。主権者であるからこそ、生存権・幸福追求権が保障されていることは言うまでもなく、主権者であるからこそ日本国憲法第3章に規定されている基本的人権が最低限全て保障行使できなければならないのだ。それこそが、社会的な幸福が実現された社会であろう。振り返ってみよう。知的障害があるだけで、婚姻の自由は阻まれ、グループホームから退去を迫られる。知的障害があるというだけで、丁寧な取り調べや司法手続きの説明を受けず、冤罪の罪を認めさせられ、長期間の裁判闘争を強いられる。こんな例は枚挙にいとまがない。こんな社会で、社会的な幸福は保障されていると言えるのか?
まぁ、ともかく。社会福祉の増進実現は主権者の権利であり義務であると定義づけるのが妥当と思われる(社会福祉を享受する主体としての主権者 社会福祉を実現する義務主体としての主権者)のだが、残念なことに社会福祉法改正時の衆参議院の審議録には、「主権」「主権者」という核心的な語句は検索しても現れなかった。検証のために国会会議録検索システムから委員会・本会議審議録を抜粋編集した部分をアップしておくので、検索してみて確認していただければありがたい。
衆議院審議録
参議院審議録
✽膨大な資料だがダウンロード可能です。
この二つの語句がないからと言って、与野党の方々、関係者・識者の方々の社会救済に対する尽力と熱意を疑っているわけではないのだが、何故憲法、国民主権の原則に立ち戻らないのか残念でならない。(先ほどの逐条解説本においても、結論を憲法に立ち戻るのではなく、一審議会の一分科会の答申における解釈を決定事項のように取り扱うのは、民主主義的、三権分立の観点から言って妥当だろうか)
ここまで大見栄を切って「社会福祉」について考えを論じてきたのだが、自分の考え方についての欠陥をここで触れないではいられない。
社会福祉が保障されるとする根拠を主権者にあることに限定すると、日本国憲法ではカバーできない事例が出てくる。何故なら、日本国憲法の三大原理の一つである「国民主権」とは、主権者を「国民」に限定するという側面もあるからである。
第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
とされ、その法律とは、国籍法(https://laws.e-gov.go.jp/law/325AC0000000147/)を指しているが、この内容を見る限り、当然国籍を取得していない(国籍を取得できない)外国人や事情があり戸籍を持たない(持てなかった)無戸籍者や戸籍を確認できないホームレスについては、国民として保障されるべき基本的人権の保障の対象外にいることになるからである。
しかし、日本の法律群はこのジレンマを乗り越える法律を用意している。というか、そのような視点でLooker-onは考えたことがなかったのであるが、主権者理論の限界を埋めるには、地方自治法にヒントがあった。些細な語句であるが、地方自治法の「住民」概念を見てみよう。
地方自治法(昭和二十二年四月十六日公布)
第二章 住民
第十条 市町村の区域内に住所を有する者は、当該市町村及びこれを包括する都道府県の住民とする。
② 住民は、法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の役務の提供をひとしく受ける権利を有し、その負担を分任する義務を負う。
(昭和22年公布当時)
*住民は、この法律の定めるところにより、その属する普通地方公共團体の財產及び営造物を共用する権利を有し、その負担を分任する義務を負う。
第十一条 日本国民たる普通地方公共団体の住民は、この法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の選挙に参与する権利を有する。
第十二条 日本国民たる普通地方公共団体の住民は、この法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の条例(地方税の賦課徴収並びに分担金、使用料及び手数料の徴収に関するものを除く。)の制定又は改廃を請求する権利を有する。
② 日本国民たる普通地方公共団体の住民は、この法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の事務の監査を請求する権利を有する。
第十三条 日本国民たる普通地方公共団体の住民は、この法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の議会の解散を請求する権利を有する。
② 日本国民たる普通地方公共団体の住民は、この法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の議会の議員、長、副知事若しくは副市町村長、第二百五十二条の十九第一項に規定する指定都市の総合区長、選挙管理委員若しくは監査委員又は公安委員会の委員の解職を請求する権利を有する。
③ 日本国民たる普通地方公共団体の住民は、法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の教育委員会の教育長又は委員の解職を請求する権利を有する。
第十三条の二 市町村は、別に法律の定めるところにより、その住民につき、住民たる地位に関する正確な記録を常に整備しておかなければならない。
地方自治法における「住民」は、「市町村の区域内に住所を有する」という事実のみによって、許可や登録等の行為なしに住民としての要件が充足される。住民票届出や住民基本台帳登録という行為がなくても、その地域に住んでいるならば、それだけで「住民」の要件は満たされるのである。住民の要件として、人種・性別・年齢・行為能力を問わないのはもとより、国籍も要件とされない。さらに、自然人に限らず法人も含まれているのだ。もちろん、住民が住む普通地方公共団体の政治決定やガバナンス組織の決定の権限については、日本国民たる住民が権限を独占するが、当該地方公共団体が提供する役務(住民サービス)については、法律に定めるという限界はありつつも、「提供をひとしく受ける権利」を有するのだ。従って、先ほどの国籍を取得していない(国籍を取得できない)外国人や事情があり戸籍を持たない(持てなかった)無戸籍者や戸籍を確認できないホームレスも、「住民」として権利保障のためのサービスを享受する主体として地方自治体において登場することができるのだ。従って、社会福祉=制限能力者を含む全主権者が最低でも基本的人権を行使保障される状態というこれまでの定義から、一歩拡張して、地域における社会福祉=地域福祉について、制限能力者を含む全住民が最低でも基本的人権を行使保障される状態と定義するならば、日本国籍及び日本領土に住む日本国に関わる全ての人が社会福祉を享受する主体とすることが可能となるのだ。
社会福祉法(平成12年6月7日「社会福祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する等の法律」により名称変更)において、条文として、初めて地域福祉=「地域における社会福祉」と定義づけ、条文化した。
一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、社会福祉を目的とする事業の全分野における共通的基本事項を定め、社会福祉を目的とする他の法律と相まつて、福祉サービスの利用者の利益の保護及び地域における社会福祉(以下「地域福祉」という。)の推進を図るとともに、社会福祉事業の公明かつ適正な実施の確保及び社会福祉を目的とする事業の健全な発達を図り、もつて社会福祉の増進に資することを目的とする。
(地域福祉の推進)
第四条 地域住民、社会福祉を目的とする事業を経営する者及び社会福祉に関する活動を行う者は、相互に協力し、福祉サービスを必要とする地域住民が地域社会を構成する一員として日常生活を営み、社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が与えられるように、地域福祉の推進に努めなければならない。
「社会福祉法の解説」においては、この部分は以下のように解説されている。
(2) 第四条(地域福祉)の推進
本条は、「地域祉の推進」という見出しの下、地域福祉の推進は、誰が、何のために行うべきものであるかを明らかにしようとしているものである。
まず、地域福祉の推進に努めなければならない主体としては、地域住民、事業者及び社会福祉に関する活動(ボランティア等)を行う者、の三者を定めている。ここで注目されるべきは、「地域住民」そのものを、努力義務の主体として定めている点である。従来は、地域住民は、事業を実施するにあたって理解と協力を得るべき存在にとどまっていた(旧社会祉事業法第三条の二)が、改正後は、地域住民は、事業者及びボランティア等と協力して、地域の推進に努めなければならないものとされたのである。
次に、地域福祉の推進の目的は、「福祉サービスを必要とする地域住民が地域社会を構成する一員として日常生活を営み、社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会が与えられるように」することとされている。一言で表現すれば、いわゆる「ノーマライゼーション」の実現が地域福祉の推進の目的ということとなる。
(P110)
*上記の「解説」の内容は、以下の条文改正の経過を知らないと、やや意味不明である。
平成2年6月29日、老人福祉法等の一部を改正する法律(法律第58号) に伴い、社会福祉事業法は施設中心から在宅福祉へ舵を切るのであるが、その際、社会福祉事業法は次のように改正された。
従来の第3条は
(社会福祉事業の趣旨)
第三條 社会福祉事業は、援護、育成又は更生の措置を要する者に対し、その独立心をそこなうことなく、正常な社会人として生活することができるように援助することを趣旨として経営されなければならない。
と、要支援者の自尊心を尊重しながら自立支援をするという趣旨から
(基本理念)
第三条 国、地方公共団体、社会福祉法人その他社会福祉事業を経営する者は、福祉サービスを必要とする者が、心身ともに健やかに育成され、又は社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられるとともに、その環境、年齢及び心身の状況に応じ、地域において必要な福祉サービスを総合的に提供されるように、社会福祉事業その他の社会福祉を目的とする事業の広範かつ計画的な実施に努めなければならない。
と表現が中立的、ノーマライゼーション理念に軸足を移した表現に変更されるとともに
第2項として以下の条文が追加された。
(地域等への配慮)
第三条の二 国、地方公共団体、社会福祉法人その他社会福祉事業を経営する者は、社会福祉事業その他の社会福祉を目的とする事業を実施するに当たつては、医療、保健その他関連施策との有機的な連携を図り、地域に即した創意と工夫を行い、及び地域住民等の理解と協力を得るよう努めなければならない。
国、地方公共団体、社会福祉法人その他社会福祉事業を経営する者が、地域における福祉の増進の主体ではあったものが、地域住民自身も主体であり、国、地方公共団体、社会福祉法人その他社会福祉事業を経営する者はその支援役に回ると転換を社会福祉法において宣言したため、「公的責任の後退」という批判を受けるのは、ある意味必然だったとも言える。
ただ、この議論には、「小さな政府」を志向する新自由主義的主張に思惑があるとはいえ、中央集権的な政治統治機構から中央⁻地方が水平的な地方分権的な転換する流れにも呼応する側面も否定はできなかった。Looker-onの「社会福祉」の定義では、社会福祉は国民・主権者の権利であり、義務であるから、地域における福祉の増進の主体は、当然ながら地域住民とその自治活動にあるのは当然なので、頭ごなしに「公的責任の後退」とするのは誤りで、むしろ憲法に定められた本来の形態に復帰していくものとして評価しなければならないと思われる。しかし、これには批判側、推進側にも欠いていた視点が必要である。
先ほども言ったように、地方自治法で規定された「住民」とは、自然人としての「国民」と「国民」資格(国籍)を持たない人及び法人が含まれるという規定がある。地域における法人も地域住民であり、地域の福祉を増進する主体であり、支援役ではないのだ。社会福祉事業を専業とする社会福祉法人は、まさに様々な利害関係を持つ法人の先頭に立ち、率先して地域福祉を増進する役割を担うのである。国の一連の改訂は、相変わらず、「社会福祉」を一部の社会福祉サービスを必要とする人の救済活動に限定するという権利擁護の広がりに対する無理解や想像力のなさが見て取れるのである。
このように規定していくと、社会福祉法人の「純粋性」の内容や実践が明確になっていくのではないだろうか?社会福祉事業の実践とは、制限能力者を含めた全主権者や住民が最低限でも基本的人権を行使保障される空間を拡大していくことである。特に、社会福祉法人は、公的委託費なども原資にしつつも、それによってもたらされた利潤を再び、社会福祉事業に再投資して規模を拡大していくことで、社会福祉的な「空間」を地域に拡大していく。そのことを通じて、地域における社会福祉の増進を地域住民及び地域の法人たちとともに図っていくのだ。社会福祉法人はもともと社会福祉事業を行うことを宿命づけられた法人であるがゆえに、エンジンとして活動をしていくし、していかなければならない。その財政的裏付けや税制的な補償として、収益事業をする許可と社会福祉事業に対する法人税の免除があるのである。少子高齢化社会において、社会福祉法人が果たす役割としては、人口が流失する過疎地域であれば、地域おこし(地場産業や農業の復興等)や削減される公共交通機関を保管するコミュニティ交通事業(コミュニティバス等)を興すこと、医療支援体制の後方支援、富裕層を移住させてくるようなコミュニティ作りも重要な活動であるし、都市部の高齢化地域でも、同様に若年世帯が子育てしやすく郷土愛をもつような街づくりの一端を担うとか社会福祉法人が担うべき役割は多様で創造性の発揮できるものと思われる。
社会福祉法人は、学校経営をする学校法人に比べ、財政的な自立を遂げることが困難であった。私立学校が、学校法人制度を一定政府から相対的に自立して維持できているのは、そもそも歴史的に学生からの授業料をある程度学校側の水準で決めることができるからであり、それを潤沢な資金として事業を拡大できたからである。社会福祉法人は、そもそも貧困層の社会救済から立ち上がったため、要支援者からの資金も期待できず、公的価格もさほど高くもない為、事業規模を向上させることが困難であった。零細経営による施設経営を法人化することで徐々に資金を蓄積するしかなかった。ただ、昨今の高齢化や障害福祉、子育てが公的に社会維持のために必須となってきたために投下される資金は莫大なものとなった。今まさにこの状況を社会福祉法人の「公共性」「純粋性」の原点に立ち帰り、地域住民の一角として活動をしなければ、その意義は失われていくと思われる。
残念なことに、社会福祉事業の「純粋性」の議論は、平成12年5月10日第147回国会衆議院 厚生委員会
において、以下のように交わされたが、答弁する丹羽大臣も質問する児玉議員(日本共産党)も内容は深まらず終わつた。
• 098 児玉健次
○児玉委員 次の問題に入ります。 民間企業の参入と支援費に関連してです。 冒頭、全体を包括する理念といいますか考え方として、社会福祉事業における公共性と純粋性と永続性、以前にも議論したことがありますが、これを維持し確保していくことは、今後の日本における福祉事業の充実発展のために重要だと考えます。その点、大臣はどのようにお考えでしょうか。
• 099 丹羽雄哉
○丹羽国務大臣 社会福祉事業におきます公共性、永続性というのはわかるのですが、純粋性というのはよくわからないので、ちょっと教えていただけますでしょうか。その上で、またお答えいたします。
• 100 児玉健次
○児玉委員 以前児童福祉法の関連、そして保育所の関連でことし議論したときに、皆さんが常にこの三つを連続してこの順でおっしゃるのです。公共性、純粋性、永続性、私はそれを引用しているだけです。
• 101 丹羽雄哉
○丹羽国務大臣 失礼いたしました。 まず、社会福祉事業の公共性でございますけれども、福祉サービスは、当然のことながら国民すべての方々にとって大変必要となり得るサービスでございます。必要とする方に対しましてはひとしく提供される必要がある、こういうことではないか、このように考えております。 それから、永続性でございますけれども、福祉事業が一たん開始されますれば、当然のことながらサービスを必要とする方々の利用が中断されないように継続して行われなければならない、こう考えているような次第でございます。 最後に、純粋性でございますけれども、いま一つ私もまだ理解しておりませんけれども、社会福祉事業におきましては、あくまでサービス利用者の差し迫ったニーズに対応するもので、基本的には利潤を追求する目的でない、こういうふうなことから考えなければならないわけでございます。 しかし、昨今のさまざまなニーズの中におきまして、介護保険におきましては民間企業の参入というものを認めたわけでございます。これはどういうことかと申しますと、いわゆる施しの給付サービスから、積極的に民間参入を入れた競争原理の中において質の確保を図っていきたい、こういうようなねらいがあるわけでございますけれども、当然のことながら、そういう中においても今委員が御指摘のような点も、私は、民間企業でございますので、営利を追求することをすべて否定するわけではございませんけれども、初めに営利ありきというようなことではこのようなことが実際問題として成り立たない、こう考えておるわけでございますので、関係者の皆さん方にもその点は十分に御理解をいただかなければならない、こう考えているような次第でございます。 いずれにいたしましても、入所施設であるとか在宅福祉事業であるとか、先ほどからお話がございます小規模の通所授産施設、こういったようなさまざまな事業の多様性というものを踏まえながら、それぞれに合った、利用者にとって果たしてどういう面において質が担保されるか、こういう角度から考えるべきものだ、このように考えているような次第でございます。
• 102 児玉健次
○児玉委員 純粋性というのは、辞書を引きますと、まじり気のないということです。福祉としての純粋性、この点は後ほどさらに議論したいと思います。(以下略)
結局、後ほど議論すると言いつつ以降正面きって衆議院でも参議院でも議論されることはなかった。
相変わらず、識者たちの論理構成は、Looker-onの目から見れば、社会福祉制度史という歴史学の分野があれば、到底歴史的、実証的な検証には耐え得ない検討の余地のあるものと思っている。ただ、社会福祉を求める社会の現実からの要請は、実践や制度の枠組みを限定してくるので、間違った理屈でもすべきことは「正しい」という状況に立っているのである。
9回にわたって、社会福祉法人制度を検討してきた。書けば書くほど、ため息がでてしまうほど、基本的人権、憲法、と言ったものが危うく、世間にはどうでもいい上面な存在になってきているのではないかと思ってしまう。
こんな時は、Aimerのcrossoversの一節を口ずさんで、次の投稿や職場での実践を考えようと思う。
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開ける扉その向こうへ
でもやっぱりちょっと寂しくて
すれ違う幻 君と手を繋ごう
理想なんて届かなくて
でもやっぱりまた追いかけて
進め一歩ずつでも 明日へ
ここまで読んでくれた方々へお礼と今後とも、このブログをよろしくお願いします。