「社会福祉」=自由・正義・民主主義に連なる「社会的な幸せ」を考える上で、そもそもの日本国憲法における権利論の構造を整理しておく。

憲法改正論議を主導していた当事者である金森徳次郎(1946年6月憲法担当国務大臣に就任)に語ってもらおう。

…個性を尊重すると同時に、共同生活も尊重しなければならぬのである。そこで、個性と共同生活との間にはどういう関係を認めていいかという議論がおこるのであるが、この憲法は、それについては明確な答えは供給していないのであってただ個性の尊重と共同生活の尊重の両面を規定しているのである。そこで明白にいいうるのは、個性を無視して団体のみを尊重する考え方は、この憲法と全く排馳するものである。したがって、指導者原理の考え方は、これによって排除せられるものといわなければならないし、極端な国家主義もまた同じ運命となるべきである。
 しかし他面、個性のみを極度に尊重するいわゆる個人の自由放埓を許すということは、この憲法の望むところではないのであって、その点について相当注意ぶかい規定を設けているのであり、それが第十二条において、特に明白にされている。すなわち、国民の権利は濫用してはならないということがある。濫用という意味は、要するに共同生活を念頭に置かなければ考えられない思想である。またその権利は公共の福祉のために利用する責任を負うということになっている。これもまた共同生活を尊重することを明白にしているのである。であるから、国民の権利と国民のわがままとを混同することは、この憲法の絶対に禁止するものであり、デモクラシーは自由を尊重するものであるけれども、責任ある自由を尊重するものであるという趣旨をここに明らかにしているとおもう。

明治憲法においては、権利の規定はあるけれども、大部分はただその権利が法律を持って定められるべしとしているにとどまり、いわば立法事項の範囲をきめたにとどまっている。したがって、法律をもってすれば、いかようにもその権利を制限することができるのである。しかるに、今回の憲法では、この権利は憲法をもって保障するのであるから、法律をもってするも、この権利を制限できないという定め方であって、その権利がもし制限をもつとすれば、それは先に述べた共同生活の福祉によってのみ限定せられるのである。
(「新憲法の精神」1946年より引用)

国民一人一人には、国の根本原理として権利が保障されているということ、国民一人一人は、共同生活の福祉を念頭に責任ある自由の下、権利を行使すべきあること、国民の権利と国民のわがままを混同しないこと等々

第十二条 
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

という条文は、金森が語るように日本国憲法の権利論の原理を示す重要な条項であって、「権利」を声高に主張する人や「権利」に対してやたら「全体」を持ち出す人にその意味を理解してほしいと思う条文であると思う。

日本国憲法で条文化されている「国民の権利」とは

この憲法の保障する国民の権利は、観念的にはいっさいの基本的人権を保障する趣旨であって、憲法に列記してあってもなくてもいずれ保障される建前であるけれども、しかし、具体的に挙げなければ明瞭にはならないから、必要なものは全部列挙してあると言って正しいと思う。…

換言すれば、国民の大部分が、まだこれを支持するにいたっていないときに、憲法が取り上げることは適当でないとおもわれる。
(「新憲法の精神」1946年より引用)

憲法は、一切の基本的人権を保障する立場であるが、条文化されているものは国民の大部分が支持しているものに限定されている。

金森は、以上を踏まえて、基本的人権を以下のように分類する。

近代的権利に三つの態度

この憲法は、いわゆる近代的権利にたいしては三つの態度をとっているのである。
 第一には、非常に明確なものは憲法の上に取り上げている。たとえば、勤労の権利、生活の権利とか両性の基本的平等とかは、これに属する。
 第二に、権利の方向はだいたい承認されているけれども、まだ具体的な程度においては、国民の間に成熟していないようなものについては、これを立法の指導原理として取り入れている。たとえば、社会の福祉、社会保障の如きがこれであって、これは、国家はすべての生活部門においてその発達につとめなければならないという義務を規定しているけれども、その内容は憲法には必ずしも明瞭に示されてはいない。
 第三のものとしては、まだ十分に国民の間に一致をえていないような権利、または時代とともに動きゆくであろうとおもわれるような権利については、この憲法は自らこれを規定しないで、法律などに譲っているのである。たとえば、家族制度の規定、母性の尊重の規定、八時間労働の規定とかいうものはこれに属する。

金森においては、「社会福祉」は「社会の福祉」と認識されており、立法の指導原理として、25条に規定されているという認識であったと言える。
この金森の考え方からも、「社会福祉」とは自由・正義・民主主義に連なる「社会的な幸せ」という目指す目標、状態と定義してもよいと思われる。

「社会的な幸せ」とは矛盾した概念である。なぜなら、「幸せ」とは優れて個人的な概念であり、個人の内面の問題であるがために、幸福感を決めるのは、その個人自身か超越した存在としての神しかないからだ。では何故こうした一見矛盾した概念が登場してきたのか?

人権の保障・民主主義の世界的流れを概観してみれば、封建的特権や絶対主義からの解放を目指してブルジュア民主主義は発展し、自由権的人権が確立された。「個人の尊重」「内面・良心の自由」はその代表的な自由権である。しかし、20世紀、資本主義による貧富の差の拡大により、個人の努力や自由権的人権の保障だけでは社会矛盾を解決することが立ちいかなくなった。その為、生存権をはじめとした社会権的人権とその保障が社会・国家の義務となったのである。このことは、「幸せ」の保障主体が、個人ないしは超越者である神だけではなく、社会全体や国家も含まれるようになったことを意味している。

個性(個人)の尊重と共同生活の尊重をつなぐ鍵は、「税金」である。現代民主主義は、主権者の範囲を拡大してきた。今では、国籍を有する者なら所得額に関係なくすべての住民が主権者としての地位を与えられ、国政に参加決定し国家を運営できるよう保障されている。主権者は、安全保障と基本的人権の保障のために、投票・請願・権力監視・納税行為を通じて国家権力をコントロールしている。税金は、正に安全保障と基本的人権の保障を国家権力に実現させるための財源として納められ、かつ使われなければならない。憲法はブルジョワジーを中心に自由権を封建権力から守り、専制権力の暴走を抑えるための誓約という目的から発展し、現代民主主義においては国家権力の仕組みや安全保障・基本的人権保障の範囲を具体的に定めた最高法規範としての位置を確立している。従って、憲法に保障されている基本的人権の内容こそがその社会の主権者全体に最低限保障される具体的人権と見なすことができるのである。
主権者集団の中には、様々なハンディによって主権を行使する能力が制限されている主権者が存在する。例えば、未来の主権者である児童や、身体的、精神的、知的障害による制限を抱えた障害者、認知症や要介護状態に陥った高齢者等は主権や保障された基本的人権を行使するには制限を受けている存在であろう。制限能力者は基本的人権の保障体制から脱落、排除されやすいリスクを常に持っていると言える。制限能力者を排除した主権者だけで構成された社会が「幸せな社会」であり得るだろうか?

主権者は、主権者全員が日本国憲法に定められた安全保障や基本的人権の内容・原理を享受できるようにする必要がある。その一環として、主権者は「社会福祉の増進」のために公金・税金を投入し、主権者全員が基本的人権を保障され行使できるようにする義務があることになる。また、未来の主権者である児童・少年は日本国憲法に定められた安全保障や基本的人権の内容・原理を理解し積極的に遵守する義務があり、そのことを理解するために教育を受けなければならない。それ故、私教育においても、日本国憲法に定められた安全保障や基本的人権の内容・原理を理解し積極的に遵守する教育を行う義務が生じ、公教育や私学助成はそれを実現保障するための手段であるがゆえに、合憲なのである。(従って、私学教育が私教育であるからと言って、反民主主義的、反憲法的な教育を行ってはならないのである。)

以上の考察から、「社会福祉」とは、「制限能力者も含めて全主権者が憲法に定められた基本的人権の実現・行使が保障される」状態であり、その状態を社会的な意味において「幸せ」であることを定義づけた用語であると言えるのである。従って、社会福祉事業とは「制限能力者も含めて全主権者が憲法に定められた基本的人権の実現・行使できる」よう支援する事業と定義づけられるのが妥当であろう。

社会福祉原論的な話はとりあえずここまで。

次回は、児童虐待か少子化問題について書いてみようと思う。

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