何とか先日、介護支援専門員更新研修を終え、修了証をもらう事ができた。10月以来の難行苦行が終わってホッと一息をついている。ブログもそろそろ本格的に投稿していこうと思っている。

さて、ここ数回は興味のない人には興味のない話になりそうだ。「社会福祉法人」について、これまで調べたこと、歪められて伝えられていることについて、書いてみようと思う。そして、いわゆる「社会福祉法人制度改革」なるものについて身近なものとして感じられたらありがたい。

先ずは、社会福祉法人について昨今よく語られる「マネジメント」についての誤解をただすことから始めようと思う。よく経営関係の研修に行くと、必ずと言っていいほどドラッガーの「非営利組織の経営」(原題:MANAGING THE NONPROFIT ORGANAIZATION 1990)がバイブルのように引用され、社会福祉法人において「経営」「マネジメント」が必要であると説く言説が多いように見受けられる。その文脈で、これまでの社会福祉法人には「経営」がなく「運営」がなされるだけだった、経営・マネジメントをするには理念・使命(ミッション)が必要、等々とこれまでとは一線を画した経営を求めることが多い。

*ちなみに、ドラッガーのマネジメント論の集大成である「マネジメント―課題、責任、実践」(1973)は、邦訳でも1000ページを超える上中下巻構成の大著で、ドラッガー自身がその本質質的な部分を要約したものが「マネジメント[エッセンシャル版] – 基本と原則」(2001)だ。

ドラッガーは、1909年11月19日生 – 2005年11月11日没なので、没後20年しか経っていない。「非営利組織の経営」「マネジメント[エッセンシャル版] – 基本と原則」ともに時期的に最晩年の著作となり、我が国の社会福祉の年表に置くと、ちょうど社会福祉8法改正による在宅サービスの推進、福祉サービスの市町村への一元化が始まり社会福祉基礎構造改革へつながる過渡期にあたり、ある意味、研修で述べられている雰囲気から考えると、根源的な部分で理論的基礎や精神的支柱になったのだろうと推測される。

また、ドラッガーを読んだことがない者でも、なんとなく繰り返される「ドラッガーという権威」が言っているから、社会福祉法人「経営」には「マネジメント」が求められると理解してしまうのではないだろうか?(「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」通称『もしドラ』としてベストセラーになったり、映画化もされたりしたのでドラッガーの名前は、学説は置いといても名前は知っているだろう)

ひねくれた見方かもしれないが、「非営利組織の経営」を社会福祉法人のバイブルとして扱うためには、そもそも社会福祉法人がドラッガーのいう「非営利組織」の範疇に入っていることが前提だ。そうでなければ、そもそもこのご高説は成り立たない。

さて、ドラッガーは、「非営利組織の経営」(原題:MANAGING THE NONPROFIT ORGANAIZATION 1990)で「非営利組織」としてどんな組織を想定していたのだろうか?

ドラッガーは、「日本語版への序文」において、

「いまも機能している最古の非営利機関は、日本にある。奈良の古寺がそれである。創立の当初からそれらの寺は、非政府の存在であり、自治の存在だった。もちろん、「企業」でもなかった。そして今日、日本には、かなりの数の非営利機関、つまり、美術館病院私立学校、そして私立大学がある。しかも非営利のある領域では、日本は世界で最も進んでいる。あらゆる種類の産業団体である。 それらの団体は、同業の企業間、異なる産業間、そして産業界と政府間の橋渡し役を務めている。」

「しかし、何にもまして、アメリカには、政府機関や企業においてフルタイムで働く人たちや学校教師からなるボランティア、すなわち、自分の余った時間の大半を使って教会や、ボーイスカウト、ガールスカウトのようなコミュニティサービス機関や、心臓協会のようなコミュニティの保健関係機関などのために働くボランティアが、基本的な要員となり、かつ、たいていは彼らが管理し、運営しているという非営利機関が多数存在しているのである。」

他に、非営利組織の活動として、「スラム街の子供の教育」支援、「アルコール中毒患者や麻薬患者の更生」「都市の青少年の非行化の防止」を挙げている。また、日本のPTA活動もアメリカのPTA活動より活発な非営利活動として紹介されている。(ドラッガーは、日本美術にも造詣の深い知日家であったので、日本の細かい制度についても見識が深いと思われる。「マネジメント―課題、責任、実践」には、明治維新や渋沢栄一への言及が繰り返されている)

この序文を見るだけでも、わかる通り、ドラッガーの想定していた「非営利組織」とは、構成員のボランティアに基づいて行われる慈善活動や公益活動(教育・病院等の医療を含む)を担う組織であり、この範疇に「社会福祉法人」という用語も、それを想起させる活動も書かれていない。

ちなみに、「非営利組織の経営」4章「寄附者という支持層を構築する―ダドレイ・ハフナーとの対話」(ダドレイ・ハフナーは、米国心臓協会の最高経営責任者兼副理事長)では、

ドラッガー:1600もの地方組織で、あなたが使っておられる手法をいくつか挙げていただけませんか。地方組織で資金の大半を集めておられるのですね。

ハフナー:資金の99%はコミュニティレベルで集めています。先ず寄附をしてくれそうな人々に対して、自分たちがどのようなことを目指しているかを知ってもらわなければなりません。そうすることによって、組織の目標と一体感をもってもらうのです。

ドラッガー:そのためには、組織として明確な使命をもっていなければなりませんね。

ハフナー:きわめて明確な使命と、きわめて明確な目標をもっていかなければなりません。私たちの目標は、心臓血管系の病気や発作による若死にと、身体障害を防止するという使命に直結しています。・・・・

この対話でも分かる通り、ドラッガーが対象としている「非営利組織」とは、繰り返すと、構成員のボランティアや寄附金に基づいて行われる慈善活動や公益活動(教育・病院等の医療を含む)を担う組織を指している。どう考えても、介護保険給付や自立支援給付といった公的給付金を収入のほとんどとする社会福祉法人が「非営利組織」の範疇に入るとは考え難いのだ。

ここで終わっては、話は発展しないので、別の角度からドラッガーの理論を見てみよう。

ドラッガーは、自らを社会生態学者と位置づけ、現代社会の特徴を描き出した。その社会観は、現代は、産業社会であり、その中軸を担うのが、「企業」(原文:business enterprises)であり、市民はどんどん企業に雇用される「雇用者」となっていくというものだ。しかし、企業だけで社会が構成されている訳ではなく、企業よりもより広範に存在している「非営利組織」(無給のスタッフとして、第2の仕事として活動する場として)や企業よりも急成長を遂げた公的サービス部門(政府機関、軍隊等)といった多元的なセクターによって社会が構成されていることを論じている。

ドラッガーの考え方に共鳴する経営者は、ドラッガーの「利益」のとらえ方、そこから派生する「企業」の在り方に倫理性を感じるからではないだろうかと思う。

「マネジメント[エッセンシャル版] – 基本と原則」(2001)第1章「企業の成果より」

「企業は社会の機関であり 、その目的は社会にある企業の目的の定義は1つしかない。それは顧客を創造することである。」
「なぜなら、 顧客だけが財やサービスに対する支払いの意思を持ち、経済資源を富に、モノを財貨に変えるからである。 しかも、 顧客が価値を認め購入するものは財やサービスそのものではない。財やサービスが提供するもの 、すなわち効用である。」
「企業は社会と経済の中に存在する非創造物である。社会や経済はいかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。企業は社会や経済の許しがあって存在しているのであり、 社会と経済がその企業が有用かつ生産的な仕事をしてるとみなす限りにおいてその存続を許されているにすぎない。」
「利益とは、企業存続の条件である。利益とは、未来の費用、事業を続けるための費用である。」

ドラッガーは、戦前のナチズム等の全体主義体制への批判と民主主義社会の健全な発展を進行する産業社会化、被雇用社会化の中で果たすために、「企業社会」におけるマネジメントの確立に精力を注ぎ、企業研究やコンサルタント活動を行ってきた。(ちなみに「マネジメント―課題、責任、実践」(1973)のまえがきの副題は「専制に代わるもの」である)単に、利益・利潤を企業や自らの欲望のために極大化させることだけが目的の経営者や経営コンサルタントとは一線を画し、民主主義の価値を高める企業人のあるべき姿を提示してきたと言える。

「利益とは、企業存続の条件である。利益とは、未来の費用、事業を続けるための費用である。」とは、まさに「利益」とは、個人の私利私欲のものではなく、事業を未来永劫存続させるコストという認識の転換を求めている。なぜなら、「企業は社会と経済の中に存在する非創造物」「企業は社会や経済の許しがあって存在している」からだ。

そして存続をし続けるためには、

「真のマーケティングは顧客からスタートする。 すなわち現実 欲求 価値からスタートする 。我々は『何を売りたいか』ではなく 『顧客は何を買いたいか』を問う。『我々の製品やサービスにできることはこれである。』ではなく『顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである。』と言う。」
「イノベーション すなわち 新しい満足を生み出すことである。」
マーケティングによる顧客の確保とイノベーションによる顧客の開発が必須となるのである。

ドラッガーにとって、非営利機関の顧客は、不特定多数の大衆や地域全体である。何故なら、誰もが否定できない公益(“みんなが心臓病にならないようにする”とか“地域の活動を盛んにする”とか“心の安らぎの場を維持する”とか)だからだ。しかし、逆に誰もが否定できないふんわりとしたものであるからこそ、顧客の心をつかむために使命・目標等が具体的でなければならないのだ。(より、レベルの高いマーケティングやイノベーションが必要なのだ)

ドラッガー経営論を福祉サービスにおいて論ずる方々の文献を読んで不思議なのは、ドラッガーが「マネジメント」において、公的サービス及び公的サービス機関についても章を割いて論じていることを語らないことだ。

介護保険給付・自立支援給付や市町村等の委託金といった公的な給付によって運営される介護事業・障害福祉サービス事業はまさに、この範疇に属するではないだろうか?

ドラッガーは、「マネジメント―課題、責任、実践」第1部「マネジメントの役割」において、「企業の成果」において上記の企業論を提示した後、4章にわたって「公的サービス機関の成果」と題して、公的サービス機関についてその課題と成功の条件を論じている。(エッセンシャル版では同様の内容をよりコンパクトに第2章に置いている)

最初にドラッガーは、

「この100年、政府機関、病院、学校、大学、軍、職種別団体などの公的サービス機関は、企業よりも急速に成長してきた。それらのものは現代社会の成長部門となった。 一方、企業の中では、サービス部門が現業部門よりも急速に成長してきた。

ところが、公的サービス機関も企業内サービス部門も、その成長ぶりに伴うだけの成果をあげていない。公的サービス機関と組織内サービス部門の不振の原因は何か。それらのものが成果をあげるために必要なものは何か。」

と問題設定をしている。

ドラッガーは、公的であれ民間であれサービス部門が成長分野であることを以下のように分析している。

「企業内においても、成長部門はサービス部門である。大企業から小企業にいたるまで、研究、計画、調整、情報などさまざまなサービス部門が急成長している。いずれも現業部門ではなくスタッフ部門である。業績に直接寄与しない部門である。経済的な組織の中にあって、直接的にはいかなる経済的成果も生まない存在である。

それら企業内サービス部門もマネジメントをもつ。それらもまた、成果をあげるべくマネジメントしなければならない。」

そして、サービス機関の運営費・収入の出自については、

「サービス機関は、政府機関や病院のような公的サービス機関であれ、企業内サービス部門であれ、 すべて他の経済活動が生み出す余剰によってコストが賄われている。それらは、間接費、すなわち社会的間接費あるいは企業内間接費によって賄われている。ということは、企業はこの100年間、 経済的余剰を生み出すという責務を立派に果たしてきたということである。」

企業もしくは個人の経済活動が生み出してきた成果の余剰=「間接費」こそが、公的・企業内サービス機関の運営費なのだ。ここから、ドラッガーは公的サービス機関の本質を「予算型組織」であると規定する。以下は、なかなか手厳しい指摘が続く。

「公的サービス機関と企業の最大の違いは、支払いの受け方にある。企業は、顧客を満足させることによって支払いを受ける。顧客が欲しているもの、代価を支払う気のあるものを生み出し、提供したときにのみ支払いを受ける。企業においては、顧客の満足が成果と業績を保証する。」

「ところが公的サービス機関は、予算から支払いを受ける。納税者や顧客が成果や業績とするものに対して支払いを受けるのではない。収入は、彼らの活動とは関係のない公租公課による収入から割り当てられる。」

「企業では、収入を自ら稼がなければならない。ところが、予算から金の出てくる組織や、独占であるために逃れることのできない人たちから支払いを受けるという種類の組織では、収入は稼がなくともよい。当然のように手に入る。自分たちの意図やプログラムの対価として支払われる。」

予算から支払いを受けることが、サービス機関の成果と仕事ぶりの意味を変える。予算型組織では、成果とはより多くの予算獲得である。仕事ぶりとは、予算を維持ないし増加させる力のことである。

したがって、成果という言葉の通常の意味、すなわち市場への貢献や目標の達成は二義的となる。 予算の獲得こそ、予算型組織の成果を測る第一の判定基準であり、存続のための第一の要件である。 しかるに予算というものは、そもそもの性格からして、貢献ではなく目論見に関わるものにほかならない。」

「いかに大切さを説いたとしても、予算型組織においては効率やコスト管理は美徳ではない。予算型組織の地位は、予算の額と人員の数で測られる。より少ない予算やより少ない人間で成果をあげても業続にはならない。むしろ組織を危うくしかねない。予算を使い切らなければ、翌年度は減らせると、議会や役員会に思わせるだけである。」

「したがって、成果があがらなければ努力を倍増する。予算を倍増する。成果があがらないことこそ、行っていることの正しさを示すものとする。さらにいっそう働くべきことの証明とする。」

毎年の障害福祉サービス関連予算がどれだけ増えたか、増やしたり維持するたりするのにどれだけの苦労が払われたか、に一喜一憂するのは、こうした「予算型組織」から来る病巣みたいなものである。まして、支援の困難な知的障害者を「より少ない予算やより少ない人間で」支援できたとしても、「業続にはならない。むしろ組織を危うくしかねない。」

ドラッガーは、公的サービス機関に対して手厳しい指摘もしているが、その存在はこの社会に不可欠なものとして認めており、マネジメントの方向性について示している。

例えば、「社会主義的競争」を引き起こす手法として

「この種の公的サービス機関の目的は公的でなければならない。特に成果については最低限の基準を設けておく必要がある。しかし、たとえ監督や規制が必要だとしても、成果の水準を高く保つためには、マネジメントは政府機関ではなく自立した機関が行わなければならない。しかも顧客となる者は、複数の公的サービス機関からサービスの内容と方法を選択できることが望ましい。水準以上の成果をあげさせるには競争が必要である。」

利用者にサービス利用の選択ができるようにする、成果の水準を決め、第3者機関がそのマネジメントや評価を行う提案は、利用契約制度においては部分的に達成はされているが、第3者機関マネジメントについては陽の目を見てもいない。

「公的サービス機関に必要なことは、企業のまねではない。成果をあげることである。そして同じように必要なことが、病院は病院らしく、大学は大学らしく、行政機関は行政機関らしくなること。 である。つまり、自らに特有の目的、ミッション、機能を徹底的に検討することである。

公的サービス機関に必要なものは、より優れた人材ではない。マネジメントの仕事を体系的にこなし、自らと組織を意識的に成果に集中させる人材である。確かに、効率すなわちコストの管理は必要である。しかしそれ以上に、成果すなわち正しい結果が必要である。

今日、公的サービス機関は、マネジメントの不足に悩んでいるのではない。公的サービス機関のほとんどは、むしろマネジメント過剰であり、手続き、組織図、手法の過剰である。必要なことは、 公的サービス機関を成果に向けてマネジメントすることである。これこそ最大かつ最重要のマネジメント上の課題である。

つまり、公的サービス機関に求められるのは、複雑な手法を開発するために予算を獲得することや複雑な手続きで取り組んでいることをアピールすることではなく、成果をあげるべき課題に真摯に向き合って、真剣に成果を上げることである。

そして、こうした公的サービス機関を監督する行政機関についても、

「今日の行政機関はあまりに重要かつ中核的な存在であり、しかもコストのかかる存在である。したがって、行政機関の目的と成果については監査が不可欠である。

いまやわれわれは、行政機関によるあらゆる政策、法律、計画について、および企業内サービス部門によるあらゆる政策、プログラム、活動について、『目的は現実的か。達成可能か。それとも言葉だけか』『ニーズに応えようとしているか』『目標は正しいか。優先順位は設定しているか。成果は公約や期待に合致しているか』を問わなければならない。」

目的とその成果に対する的確な監査の必要性を論じている。

障害福祉サービス等関係予算は、令和6年度1.6兆円規模まで拡大した。今一度、ドラッガーの公的サービス論の視点から、成果を挙げているのか否かの監査が必要ではないだろうか?(個人的には、止まらない障害者虐待や人材や受け皿が増えない強度行動障害支援等について、「大変困難な課題」という括りでさらなる予算を投入する試みについて、メスを入れる必要があると思う)

ドラッガーの公的サービス機関論までまとめてきて、ドラッガーの紹介について現在の論調は偏っていると実感したのだが、偏って紹介をしている論者の意図を考えてみた。社会福祉法人や福祉サービスを、非営利=公益・慈善事業と解釈しているから、ドラッガーの非営利組織論で満足したのではないかという仮説に思い至った。次の投稿では、社会福祉法人=公益・慈善団体という論議について考えてみたいと思う。

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