保育所での保育士による「不適切保育」が、摘発されマスコミをにぎわしている。政府は、認可保育所、認可外保育所、認定こども園、保育ママ等々就学前児童の保育体制の急速な整備拡大は、「少子化」対策の肝の1つとして急ピッチに進めてきた。そのために設置基準の規制緩和を進めもした。しかし、供給側が増えれば、それを支える保育士も急激に必要になる。質の悪い保育士が、保育の世界になだれ込んでくるのは必然だ。高まる保育ニーズに対応するため、規制緩和しかないのならば、質の悪い保育士の流入は一定甘んじて受けならないリスクともいえる。政府からすれば、質の悪い保育士を雇用した(もしくは、集まらなかった)のは、保育園側の問題なのだから、改善策は保育園側の管理運営体制の改善見直しという事業者側の問題に収斂させていく。
一見、保育園を急速に充実させなければならないという大筋は誰もが否定はしえないような保育政策の肝のように見受けられる。しかし、物事は歴史の積み重ねの上に必然性をもって展開していく。いつものように、このブログでは、先ずは我が国の伝統的な保育政策のプロトタイプはいかなるものであったのかを調べることから始めよう。
以前も紹介した「社會事業叢書第6巻 兒童保護事業」(伊藤清著 常盤書房版 昭和14年1939年版)から、「保育所」はどのように位置づけられているか見てみよう。
「兒童保護事業」では、各論において、児童の成長段階別と類型に基づいて、各論が述べられている。
目次だけ並べてみると
*以下は、章立ての内容を省略している。
さて、「保育所」である。
本書では、「託児所」について、家庭において子どもの保育の任に当たるものが、労働等の理由で保育・育成が出来ない場合に、「預かり」監視監督するという極めて消極的な事業と定義し、「保育所」については、「進んで之を保育し、其の心身の健全なる發達、並家庭生活の向上を圖る」という積極的意義を併せ持つものと定義づけた。さらには、保育所の将来的な役割として、
「四、保育所の將來
社會生活の複雑化と、經濟的逼迫並に産業の分化は自然母性をして就労の機会を多からしめ延て育児の閑却せられる結果となり、保育所設置の要望は益々熾烈となって居る。殊に今次事變に際しては都市農村を通じ生產力の維持増進を要するにも不拘勞力の不足を告げ婦人労働力に俟つ所極めて多い。而も一面統後人的資源の確保は是又戦時戦後を通じての一大國策たるを失はない。 従って将来の國家を擔ふ兒童の健全なる發育を遂げしむることは絶對的要件である。茲に於て父母に代り之等の児童に適切なる保護を與へる保育所の擴充は現下喫緊の要務であると謂はざるを得ない。」
とあるように、社会生活が複雑化し、産業化が進展し、貧富格差が出てくると女性の就労参加がより一層求められる為、育児が疎かになる。さらには、第1次世界大戦後、そして日中戦争を背景として、将来の国家建設の為に、父母になりかわって、「保育所」には将来の国民を育成する役割があることを述べている。戦争や国権主義的なニュアンスを除けば、現代においても通じる政策基調だ。
「日本における保育園の誕生 子どもたちの貧困に挑んだ人びと」(宍戸健夫著 新読書社2014年)や文部科学省HP学制百年史を参考にして、保育所が社会事業や児童保護事業の重要な部分を占めてくるまでの前史を整理してみよう。
わが国の幼児保育は、1876年(明治9年)東京女子師範学校付属幼稚園が開設されたことから始まる。遊戯を取り入れた保育が子どもの心身の発達に好影響を与えるということが明らかになる一方、「富豪の子」でなければ入園できないイメージが強くなり、1882年(明治15年)十二月、文部卿は各府県の学務課長に、文部省直轄の幼稚園は規模が大きすぎるため都会でないと設置しにくいので、もっと簡易な編成の幼稚園を新設し、「貧民力役者等の子どもで父母がその養育を顧みる暇のない者を入れるようにすべきである」として簡易幼稚園を奨励した。東京女子師範学校付属幼稚園において、保育料無料の「分室」が作られることにもなるが、1900年(明治33年)「貧民幼稚園」と呼ばれた二葉幼稚園が設立され(3歳以上小学校に就学するまでの幼児が対象)、後1916年(大正5年)二葉保育園に変更された。保育所ではなく保育「園」にこだわったのは、「フレーベルの幼稚園精神を堅持する心意気を示していた。」(「二葉幼稚園85年史」P39 )これが「幼稚園から保育園へ」の潮流の代表例だ。
一方、「児童保護事業としての保育所」の潮流がある。石井十次が1887年(明治20年)に岡山孤児院(救護法で規定 戦後、養護施設、後に児童養護施設に改称)を開設した。その後、1909年(明治42年)大阪分院を設立し、大阪南区下寺町(現在の浪速区)の愛染橋西詰に託児所(岡山孤児院附属)愛染橋保育所を設けた。「開所当初大阪府知事に提出した『愛染橋保育所規定』には、その『目的』を『当所は児女多くして家計困難なる労働者の為めに、其児女を預りて昼間保育をなし、傍ら附近児童に夜学を授け、且つ困窮者に対し必要なる補助をなすを以て目的とす』としており、その『方法』として、『当所は毎日早朝より、夕刻まで児女を預りて保育し、昼間間食(乳児には牛乳)を給し睡眠入浴等をもなさしむ。保育料は一人に付一日金二銭とす』としている。」そして、「対象」となった子どもは「生後百日以上満二歳以下の幼児」で定員は「乳児10人以下、匍匐児15人以下、歩行児20人以下」保育時間は「毎日早朝から夕刻まで」であった。今で言う0歳児保育が先駆的に行われていたのだ。
ちなみに、日本初の公立託児所は、その10年後の1919年に大阪市営が設置した鶴町第一託児所(当初は築港託児所)と桜宮託児所である。
昭和14年時点で、保育の担い手は、常設保育所と季節保育所が担っていた。
常設保育所
- 都市殊に工場地帯に多い。
- 母の勤労その外の理由により、家庭において適当な保育をすることが困難な乳幼児を対象にして、昼間母に代わって保育し、「其の心身の健全なる発育」を図るとともに「家庭生活の向上」を図ることを目的とする。
*日本で最初に設立された常設保育園は、1890年(明治23年)、新潟県において、学校に通えない義務教育年齢のこどもたちが通う私塾「新潟静修学校」を設立した 赤沢鍾美(あかざわ あつとみ)が、幼い弟妹など赤ん坊を背負ったまま勉強にくる子どもの勉学を保障するため、乳児を預かる「新潟静修学校附設託児所」を立ち上げたのが、始まりである。この時点から、すでに乳児0歳児の保育の伝統が始まっていたと言える。
季節保育園
- 主に農村に設置
- 目的は、常設保育所と同じだが、農繁期において乳幼児を保育する短期間開設
- 将来農村における児童保護事業や一般の社会事業実施上の礎地となると目されている。
- 「日支事変」(1937年)を契機に、農村の労働力不足を補い、女性労働力を確保する飛躍的に拡充されてきている。
*「児童保護事業」では、季節保育所の始まりを明治33年鳥取県としている。色々と検索していくと、鳥取県気高郡美穂村下味野に地主の筧雄平が設立した託児所が、農作業で忙しく子どもの世話をすることができないという事情から誕生したことから、我が国の農繁期託児所の起源とされている。1890年ぐらいから、原型となる活動を行っていたが、「下味野子供預かり所」という看板を掲げて本格的に取り組み始めたのは、確かに1900年(明治33年)頃であるということである。
「児童保護事業」の中で、「保育所」の全体像がデータとして記載されている。
昭和14年当時の0歳から4歳児人口は、9,152,000人であり、約15%(1,372,790人)の乳幼児が利用していることになる。(5歳児をいれるともう少し比率は落ちると思うが)
*ちなみに、令和5年度について同様の計算をすると、0歳から4歳児人口は4,154,000人であり、約66%(272万人)の乳幼児が保育所を利用している。(人口が半分以上減少し、通園させている子どもが倍になれば、4倍の拡大率になるのは当然だ。)
*昭和23年~28年までの0~4歳児人口は、第1次ベビーブーム期に当たり、1100万人台を維持するがが、その後逓減し、1974~1975年に1000万人をかろうじて維持するだけで、下降傾向になっていく。保育所等入所児童の数は、1974年1,523,861人(総人口10,022千人 15.2%)、1975年1,631,025人(総人口 10,005千人 16.3%)で、保育所に通わす比率は、乳幼児数が最も多かった時期でもそれほど変化はなかったと言える。
戦前の保育体制の展開を見るならば、保育所は、働かなければならない母親の就業を継続し、なおかつ子どもの健全な発育を保障する目的で地域において立ち上がり展開してきた。従って、働かなければならない女性が多く住む地域や職場に附属する施設として展開するのが合理的であったとも言える。その流れは、戦後にも受け継がれ、働く女性による敗戦当時の「青空保育」やその後の個人の家屋や団地を利用した「共同保育」、労働組合や会社側による職場保育所・託児所運営等が行われてきたが、こうした事例を見る限り、保育所若しくは保育施設というものは、居住地域か職場(つまり、出発点か終点)に展開されるべきものであり、それが日本人になじみやすい伝統的な在り方なのだ。もちろん、産業構造は大きく変化し、第1次産業・第2次産業構造優位から第2次・第3次産業優位にシフトしている中で、「居住地域」や「職場」という概念や労働の在り方が、地縁・地域的なものから乖離し、変化し続けている。変化に対応しつつ、伝統(それは、日本社会で取り組みやすい行動様式でもある)を刷新して新しい地縁・地域性を保育所に取り戻す必要がある。企業・職場が、「生産性」を追い求めて、労働者の子育ての営みを無視し、個人・家庭の個別の問題に押し込めてきた従来のスタイルは刷新される必要があるのではないだろうか。また、希薄になる地域について、改めて、地域の共同保育というものを見直さなければならないとも思われる。
*ちなみに、職場において保育所を設置する手段については、2016年度(平成28年度)に内閣府が企業主導型保育事業(企業が従業員の働き方に応じた柔軟な保育サービスを提供するために設置する保育施設や、地域の企業が共同で設置・利用する保育施設に対し、施設の整備費及び運営費の助成を行う事業)を立ち上げるまで、通常の保育所認可制度しかなかった。職場における保育機能を多様化・拡充する試みはこれまで放置されてきたことを示している。
*伝統的な保育政策では、働かなければならない母親・女性の姿しか見えてこない。子育てが、男女(父母)が協同で担うべきものという意識が当たり前になれば、保育所の在り方についても選択肢が多様化するとのではないだろうか?
0歳児保育は、伝統的な保育体制においては、むしろ原点であった。そして、0歳児から子どもを保育所に預けて、母親が仕事を始めるのは、現在の子育て世帯の1つの有力な生活スタイルといえよう。実際、令和4年度調査では0歳児の13%である14万人が0歳児から保育所に預けられている。
「こども・子育ての現状と若者・子育て当事者の声・意識」(内閣官房こども家庭庁設立準備室 令和5年1月19日 https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/kodomo_seisaku_kyouka/dai1/siryou5.pdf)
国際的に、0歳児保育はどうなのだろうか?
先ずは、福祉先進国のスウェーデンを見てみよう。
厚生労働省HP International Information 諸外国の労働情勢及び社会保障情勢を知りたい(英米独仏の雇用施策や社会保障など)https://www.mhlw.go.jp/bunya/kokusaigyomu/kaigai.htmlが年次別に海外の社会保障の現状をレポートしている。
2021年度版では
「対象児童の年齢に応じて、基本的に1~6歳児(就学前)を対象とする保育所(プレスクール(Förskola))、就学している児童を対象とする放課後保育所(レジャータイム・センター(Fritidshem)、そして両者(1~12歳児)を対象とする家庭保育(教育的保育)(Pedagogisk omsorg)がある。なお、5~6歳児については義務教育の準備段階として就学前学級(プレスクール・クラス(Förskoleklass))制度が設けられている。 保育所には、通常の保育所以外に開放型保育所=オープン・プレスクール(Öppen förskola)がある。開放型保育所は保護者が児童とともに自分で日を選んで任意の時間に訪問できる施設で、地域の子どもの遊び場であると同時に育児期間中の父母などに交流の機会を提供している。家庭保育は、一定の資格を有する保育担当者が、自分の家で数人の児童を保育するものである。
2020 年において1~5歳児の85.4%が保育所、1.4%が家庭保育(教育的保育)を、6~9歳児の81.5%が放課後保育所、0.1%が家庭保育(教育的保育)を、10~12歳児の19.5%が放課後保育所を利用している。6歳児の多くは就学前学級を利用している。」
気をつけて読むと分かるが、保育サービスを受けている子どもは1~5歳児であって、0歳児はない。
このHPをよく見ていくと、2011~2012年度版
「対象児童の年齢に応じて、基本的に1~6歳児(就学前)を対象とする保育所=プレスクール(Förskola)、就学している児童を対象とする放課後保育所=レジャータイム・センター(Fritidshem)、そして両者(1~12歳児)を対象とする家庭保育(Familjedaghem, 2009年以降はPedagogisk omsorg)がある。なお、5~6歳児については義務教育の準備段階として就学前学級=プレスクール・クラス(Förskoleklass)制度が設けられている。保育所には、通常の保育所以外に開放型保育所=オープン・プレスクール(Öppen förskola)がある。開放型保育所は保護者が児童とともに自分で日を選んで任意の時間に訪問できる施設で、地域の子どもの遊び場であると同時に育児期間中の父母などに交流の機会を提供している。家庭保育は、一定の資格を有する保育担当者が、自分の家で数人の児童を保育するものである。2011年において1~5歳児の83.2%が保育所、3.1%が家庭保育を、6~9歳児の82.6%が放課後保育所、0.3%が家庭保育を、10~12歳児の16.9%が放課後保育所を利用している。なお、0歳児の保育サービス利用は稀(全国で14人)である。6歳児の多くは就学前学級を利用している。」
この年度の記述を最後にして、0歳児記述はカットされている。意図的かそうでないかは別として、スウェーデンでは、0歳児保育は制度としてあるものの、1桁~10名台を推移しており、ほとんど利用者がいない現状だ。つまり、スウェーデンでは、1歳児未満は親が家庭で養育をしているのが一般的であると推察できる。
先進国の中で、出生率回復が認められ日本でも注目されているフランスを見てみよう。
2022年海外情勢報告(https://www.mhlw.go.jp/content/001199621.pdf)によれば、
「保育サービスとして、大きく分けて託児所(Crèche collective)によるものと個人(認定保育ママ)(Assistantes maternelles)によるものとがある。 託児所は主に3歳未満の子どもを預かる施設で、集団託児所、ファミリー託児所、親が組織するペアレント保育所などの形態が認められている。利用者負担は、所得や扶養家族数によって異なる。 個人としての認定保育ママは、家族・社会扶助法典に基づき、県議会議長が許可する(指導・監督は県の管轄下の母子保護センター)。事業開始に当たっては、80時間の研修を受ける必要があり、事業開始後3年以内にも40時間の研修を受ける必要がある(合計120時間)。対象となる子どもは、6 歳未満で、サービスの料金や時間帯について利用者と認定保育ママとの間で自由に取り決めを行うことができるが、子ども1人当たりで最低賃金(SMIC)×0.281 に相当する額以上の報酬を支払う等のルールがある。従事者数は約241,000人。認定保育ママ等を雇用して6歳未満の子どもを1人以上預けながら働いている親には、乳幼児受入手当(PAJE)の補助手当のなかの保育費用補助として手当が支給されるほか、税額控除がある。 なお、フランスでは3歳から保育学校(école maternelle)と呼ばれる義務教育が始まる。親の就労状況に関わらず、基本的に全員が入学し、放課後には学童保育もある。」
論文「フランスの保育サービスと認定保育ママ:日本への示唆」(公共選択第69号千田航)(https://www.jstage.jst.go.jp/article/pcstudies/2018/69/2018_76/_pdf)によれば、
フランスでは、両親ともにフルタイムで働いている場合、保育所に通わせるより、3歳児未満については、身内や認定保育ママが支えるのが不可欠となっている。
二つの先進的な国の制度を見る限り、低年齢であればあるほど、親・身内・認定保育ママが一定期間家庭で保育するのがスタンダードに思われる。 しかし、日本においては13%14万人の0歳児が保育所に委託されている実態は、国際的に見ても突出しているように見受けられるのだ。
専門外で、偏った描写ではあるかもしれないが、戦前の伝統的な保育体制や0歳児保育を素描してみた。この事実から何が浮かび上がるかはまた別稿で展開できたらと思う。