児童虐待防止の第一義的な責任は誰が負うべきなのだろうか?
前回の投稿で、通報等における警察の役割は非常に大きくなっていることを示したが、その是非は別として警察が果たす役割が大きくなるまでには、決して単純な経緯ではなかった。
戦前戦前の児童虐待防止システムは、地方長官(知事)を指揮責任者とし、警察・学校職員等と協力しながら、方面委員・民間団体が地域の被虐待児を発見保護していくシステムであったと書いたが、戦前の警察はいかなる存在であったかを振り返る必要があると思われる。今回は先ずここから始めたいと思う。
江戸幕府の末期の治安維持政策は、元和偃武(げんわえんぶ 1615年5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の豊臣家(羽柴宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したこと)、武家諸法度の枠内で、各藩主等の土地人民、刑事刑法の自治権を認め、住民自治の5人組制度は手配者の逮捕権まで認めていた。その為、中央政府としての幕府は、奉行所の与力や同心は少数ですみ、関東取締出役は12人程度であった。開国以降、外国人が日本に訪れ居住するようになって、攘夷を主張する武士たちを中心に外国人を殺傷する事件が発生するが、このような脆弱な治安維持体制では、犯人の捕縛もままならず、諸外国が治外法権を求める口実にもなった。維新政府は、対外的な独立を勝ち取るためにも治安維持組織の近代化を図ることが至上命題となり、ここに、近代的警察の確立への道のりが始まるのだが、最初は大蔵省が事務所掌を行い全国の警邏を所管し、その後西郷隆盛・大久保利通らが「ポリス」組織(旧武士階級を中心とする邏卒制度)を整備し、全国化が本格的に開始。1871年、東京府に邏卒3,000人が設置されたことが近代国家警察の始まりとなった。邏卒には薩摩藩、長州藩、会津藩、越前藩、旧幕臣出身の士族が採用された(その内訳は薩摩藩出身者が2,000人、他が1,000人という構成であった)その後、司法省に邏卒は移管され、邏卒・取締組・捕吏といった治安組織の名称を東京府が始めた番人制度を踏まえて、「番人」に統一した。しかし、本来、番人とは、江戸幕府時代の木戸番所に置かれた非人身分からなる治安維持組織名称であったこともあり、武士出身の多い邏卒等から大いに不評であり、脆弱な側面を持っていた。征韓論政変を頂点とした政府内権力闘争で、江藤司法卿が下野し、後西郷隆盛が下野する中で明治政府を主導することになった大久保利通により、明治7年1月に内務省が設置され、邏卒組織は内務省警保寮に移管。また、首都の治安対策として、同時期に東京警視庁を創設し、川路利良が大警視として任命された。警視庁は、先行して7年には、羅卒を巡査と改称するとともに、巡査を東京の各「交番所」に配置した。
*「交番所」は、当初は、巡査が活動する場所として指定がなされているだけであった。巡査は、交代で屯所から「交番所」まで行き、そこで立番等の活動を行った。7年8月、東京警視庁がこの「交番所」に施設を設置することを決定し、そこを拠点に周辺地域のパトロール等を行うこととなった。以降、施設の置かれた「交番所」が増えていき、14年には、「交番所」は「派出所」と改称された。
「川路は維新で乱れた風紀は治安の根幹を損なうと考え、8年風俗警察の命令制定権を東京府から警視庁に移すよう強硬に主張した。その後も行政警察に属する命令制定権を移管して行政警察の範囲を明らかにした。」(松尾庄一「実務から見た警察の歴史」現代警察第142号) そして、明治8年(1875年)3月7日「行政警察規則」が制定され、「捕亡吏取締組番人等の名称を廃し邏卒と改称」し邏卒と統一され、同年10月には邏卒も「巡査」(巡邏査察の意)に改称された。
さらに、21年「派出所」が全国に設置されるようになり、同時に「駐在所」も設置された。「派出所」の施設を拠点に交替制勤務を行う巡査と、「駐在所」の施設に居住しながら勤務する巡査が、地域社会の安全の確保に当たるという、交番・駐在所を中核とする現在の地域警察の原型がここに生まれた。
戦前の警察組織は、内務省が管轄する全国組織であり、明治政府内の権力闘争の過程で生み出された国内治安維持組織であり、交番・派出所といった地域に根差したシステムを運営してきた。(警視庁は、首都の治安を維持する為、より機動的に治安維持を行うために設立されたものであり、警視庁の先行事例が全国に波及していくモデル先導役を果たしていた。)
このブログの読者で、明治6年政変と明治14年政変での明治政府の権力構造の変化や大日本帝国憲法に至る薩長藩閥を中心とした権力構造や政治思想の確立に関心のある方、特に明治6年政変に興味のある方は、明治6年政変が、岩倉使節団を中心に構成された「外遊組」(大久保利通、伊藤博文等)とそれと対抗する「留守居政府」派(江藤新平そして西郷隆盛)の対立の帰結であったことをご存じであると思う。フランスをモデルにした司法権を通じた急進的な「民主的」改革、それによる汚職に手を染めた薩長閥に対する追及の政治的敗北が明治6年政変の背景にあることを主張する学説があるが、その政治的な帰結は国内秩序の維持を司法省が中心になって行うのではなく、内務省等の行政権により管理予防し、不平士族や自由民権派を鎮圧するという大きな流れを生み出した。当初、司法省の管轄であった警察組織が、内務省に移管されたのはこうした流れの一端であり、司法省や司法制度が我が国において独立した発展をするには困難が伴った。(例えば、判事の数が少ない等)
こうした大きな流れを踏まえて、改めて戦前の警察組織を概観してみよう。戦前の警察は、「行政警察」と「司法警察」に大別される。今でこそ、犯罪捜査は警察の職務のように思われるが、本来犯罪を裁判において裁くのであるから司法権の領域だ。戦前はそのため住み分け方が明快だった。犯罪捜査は本来、司法権の作用として裁判所に置かれた検察の事務とされ、警察官は検察官の指揮のもとに、その補助者としての立場で犯罪捜査を行うのが建前であった。(実際は、警察が独断で行うことも常態であったとの説もあるが…)昭和23年旧警察法で犯罪捜査が警察固有の事務であることが明確化され、独立した第1次捜査権と裁判所の発する逮捕状に基づいて被疑者を逮捕できるようになったが、戦前はままならなかったのだ。むしろ、警察の本来の任務は「行政警察」にあった。
「行政警察規則」(正式には、明治8年3月太政官達第29号行政警察規則)では、
第一條 行政警察ノ趣意タル人民ノ凶害ヲ豫防シ安寧ヲ保全スルニアリ
と規定し、直接的に社会秩序の維持を目的とする行政作用と規定している。
具体的には、第三條にて
第一 人民ノ妨害ヲ防護スル事
第二 健康ヲ看護スル事
第三 放蕩淫逸ヲ制止スル事
第四 國法ヲ犯サントスル者ヲ隱密中ニ探索警防スル事
と規定しており、広範な領域を取り扱っている。
例えば、大正9年(1920年)に発刊された「行政警察法」(帝国地方行政学会 刊 警察講習所教授内務省参事官 法学士 平賀周著)には、行政警察の取り扱い範囲として
保安警察(浮浪人等、不良兒女、精神病者、假出獄人、外国人等特殊な人ニ関する警察、刑事上の違反行為、菊御紋章及び皇室に関する文字の濫用行為、赤十字社記章ノ濫用、使用者及労務者の取締等特殊ナ行為ニ関する警察)
出版警察
集会結社及び多衆の運動(に対する警察)
特殊ノ物ニ関スル警察(危険物、銃放火、爆発物、石油 遺失物、埋蔵物、古墳等)
非常保安警察
風俗警察(公娼、貸座敷、私娼等売淫ニ関スル警察。男女混浴、公然ノ場所ニ於ケル醜體行為、動物虐待、未成年者ノ喫煙、社寺ノ尊厳ニ關スル行為等風俗ヲ害スル行為。遊技場・待合茶屋・芝居茶屋等、藝妓及ビ藝妓置屋、酌婦及雇仲居等 風俗上取締ヲ要スル営業、興行物)
営業警察
交通警察
海外渡航ニ関スル警察
以前の投稿で、大日本帝国憲法は臣民の権利を「法律ノ定ムル所ニ従ヒ」、「法律ノ範囲内ニ於テ」保障していたと記した。行政警察とは正にこのことを体現する広範な領域を警察する活動であったと言える。
*因みに、規則第四條において、「行政警察豫防ノ力及ハスシテ法律ニ背ク者アルトキ其犯人ヲ探索逮捕スルハ司法警察ノ職務トス」と司法警察の役割を定めている。
*思想信条集会結社の活動については、取締のために上位の政治警察が必要とされ、これを「高等警察」さらに軍靴の音が厳しくなり思想統制が勢いづくとさらに上級組織として「特別高等警察」(特高)が設けられた。
さらに、「行政警察法」(帝国地方行政学会 刊 警察講習所教授内務省参事官 法学士 平賀周著)においては、警察権の限界を理論上以下のようにまとめている。(カタカナ、旧字はひらがな、新字に変換、句読点は筆者で必要な場合付けている。)少し長いが当時の警察の立ち位置がよくわかるので引用してみる。
一 警察の目的により来る限界
警察の目的は公共の危害の防止に在り警察活動は一に此の目的を達する為に必要なる限度に於てせらるべきこと当然なり。
二 私生活に干渉すべからざること
私生活とは其の生活活動の影響が自己の一身又は其の周囲に止まり直接公共の秩序に影響を及ばざるものを言う。私生活は各人の自由に属し警察は之に干渉せざるものとす。然れども私生活上の行為が直接公共の安寧秩序に影響し之を侵害する虞あるものに対しては警察は之に干渉することを得べし。例えば衛生上私宅内の清潔を命ずるか如き又は風俗取締上居宅内に立ち入るか如し。
民法上の不法行為に対しても同様の理由に依り警察は之に干渉せざるものとす。
三 警察制限は危害の程度に順応すべきものたること
軽微なる危害に対し之を防止するには之に相応する程度する程度の自由の制限に止むるを要す必要の程度を超えて自由を制限するは警察権の限界を超越したるものなり。例えばある営業者が偶々不正の物品を販売したるに由り直に其の営業を禁止するか如きは警察権の限界を超えたるものと謂うべく斯の如き場合は之を防止するに必要なる程度の相当の手段を講するべきものなり。
四 制限と制限に由りて生ずべき利益と相比例すべきこと
或種の行動は假令(けいりょう:たいがいの意)公共の秩序に対し危害ありとするも若し之を制限しその制限により生ずる危害が却って前の危害よりも大なりと認められるるときは警察は之に対し制限を加うべきものに非ず。警察が制限を為すに因りて一層大なる社会の不利益を生ずべき場合に於ては其の危害を容認することが却て社会の利益を保護する所似なればなり。例えば工場の煤煙が周囲の事情に照らし煤煙より生ずる危害甚だ些少なるに拘らず之を防止し却て工場上の大なる利益を阻害するか如き場合は些少の危害を除くか為に却て大なる損害を招致するものにして警察の目的に反するものなり。斯く如き危害は共同生活上容認せざるべからざる危害にて警察制限の範囲に属せざるものとす。
五 警察制限は警察上の責任有する者に対してのみ行わるべきものたること
個人の正当なる権利行為に対しては警察は之に干渉することを得ず。公共に対する危害を惹起し又は惹起せむとするものに対してのみ制限を加ふることを得へし。例えば店頭の装飾の為交通の妨害を来すことあるも其の装飾の除去を命ずること能わざるが如し。
警察上の責任は刑事責任と異り啻(ただ)に責任者其の人の行為のみならず其の家族雇人の行為は勿論その支配に属する土地家屋家畜営業等より生じたる社会上の危害に対しては総て責任を負わざるべからず。危害にして苟も(いやしくも)其の者の生活範囲より出でたるものなる以上其の責任は免るる能わざるなり。
「二 私生活に干渉すべからざること」は、現在の「民事不介入」原則の原型であるが、民民間の争いごとに対して全く不介入とする現代の言説に比べると、私生活上の行為が「公共の安寧秩序」に影響を与え、侵害する場合は警察が介入することができるとした戦前の理論の方が明快だ。具体例として、今風で言えば、ゴミ屋敷への改善指示(衛生上私宅内の清潔を命ずる)や又は風俗(一般家屋での売春行為等)取締上居宅内に立入が警察行為として挙げられているのは、現代の問題を考える上で参考になる点がある。
しかし、一方で「四 制限と制限に由りて生ずべき利益と相比例すべきこと」に定式化されている公共の秩序を犯す行為でもそれを取り締まることによって、より大きな社会の不利益が生じるならば、警察は取り締まるべきではないとしている。例として挙げられている大気汚染について取り締まることで工場に多大な損害を与えるならば、警察が取り締まるべきではないという事例は、古くは足尾銅山鉱毒事件から続く警察の体制擁護体質が露呈したものだ。警察組織とは、天皇大権の時代であり、市民・個人の基本的人権を擁護することを基礎に公共という概念が成立する時代ではないという限界性を持った体制擁護の権力組織でもあった。
このような限界性を持った組織が、児童虐待防止法が成立した昭和前期どのような形となったか?
「警察教科書 行政警察篇」(内務省警保局編纂 昭和16年7月発行)において、警察組織が児童虐待や少年問題をどのように位置づけたか目次を紐解くと興味深い。
特殊の行為に対する保安警察(菊御紋章及皇室に関する文字の濫用取締、御肖像・御陵等に関する取締)
不良少年の取締(少年法に依る保護処分 矯正院における矯正 少年教護法に依る教護)
特殊の物に対する保安警察(危険物 遺失物 建築物)
営業警察
災害警察
風俗警察(未成年の喫煙飲酒取締 児童を虐待する行為等の取締 広告物看板、射倖行為、興行、藝妓及ビ藝妓置屋・料理屋・飲食店・待合茶屋・酌婦・カフェー・舞踏場等の取締 売淫、娼妓及貸座敷の取締)
交通警察(自動車・水上交通・航空取締)
産業警察
各章の内容を見てみると、大正時代に比べて、不良少年、児童虐待の項目が追加されたのは、少年法・少年教護法・児童虐待防止法の成立を反映したものと言えるが、児童虐待に関する取締に至っては、防止法第7条の禁止された業務・行為が触れられているのみである。その検挙実態は、「入所施設、児童虐待、少子化をつなぐもの⑨ 戦前の虐待防止システムは何を防止できたのか?」で触れたとおり、(行政)警察は、女児の人身売買以外の虐待防止には、それなりの効果役割を果たしていたが、教科書には持ち上がっていないところを見ると、警察組織にとっては、児童虐待とは「交番」等の地域監視のシステムに引っかかってくる日常的な課題の一つに過ぎなかったと推測される。
戦前の警察は、行政警察・高等警察・特別高等警察等広範な領域において国民を監視・取り締る役割を担い、「臣民」の人権権利を擁護するというよりは、体制維持、暴走する軍部権力によって体制弾圧装置として不名誉な役回りを担った。
その反省から1947年12月に制定された(旧)警察法では、
国民のために人間の自由の理想を保障する日本国憲法の精神に従い、又、地方自治の真義を推進する観点から、国会は、秩序を維持し、法令の執行を強化し、個人と社会の責任の自覚を通じて人間の尊厳を最高度に確保し、個人の権利と自由を保護するために、国民に属する民主的権威の組織を確立する目的を以て、ここにこの警察法を制定する。
第一章 総則
第一条 警察は、国民の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の捜査、被疑者の逮捕及び公安の維持に当ることを以てその責務とする。
警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、いやしくも日本国憲法の保障する個人の自由及び権利の干渉にわたる等その権能を濫用することとなつてはならない。
第二条 この法律において行政管理とは、警察職員の人事及び警察の組織並びに予算に関する一切の事項に係るものをいう。
この法律において運営管理とは、左に掲げる事項に係るものをいう。
六 逮捕状、勾留状の執行その他の裁判所、裁判官又は検察官の命ずる事務で法律をもつて定めるもの
この法律にいう犯罪とは経済法令に関する違反を含むものであり、且つ、これに限定せられるものではない。
第三条 この法律に従うすべての職員の行う職務の宣誓は、日本国憲法及び法律を擁護し支持する義務に関する事項をその内容に含むべきものとする。
1954年6月警察法では以下のように改正された
第一章 総則
(この法律の目的)
第一条 この法律は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする。
(警察の責務)
第二条 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
2 警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。
(服務の宣誓の内容)
第三条 この法律により警察の職務を行うすべての職員は、日本国憲法及び法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する旨の服務の宣誓を行うものとする。
と組織の在り方を規定し、国民・住民に権限を委託された総理大臣・都道府県知事が所轄する国家公安委員会・都道府県公安委員会によって民主的に統制されることとなった。(しかして、その実態が戦前と一線を画するものになっていたか、総則等に規定された通りの組織に実態としてなったかは別の話である。)
戦後の警察関係の基本法令において、児童虐待を犯罪として取り調べる条文は整理されていた。
例えば、1948年7月に施行された警察官職務執行法においては
第2条(質問) 警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者を停止させて質問することができる。
2~4 略
第3条(保護) 警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して次の各号のいずれかに該当することが明らかであり、かつ、応急の救護を要すると信じるに足りる相当な理由のある者を発見したとき、取りあえず警察署、病院、救護施設等の抵当な場所において、これを保護しなければならない。
一 精神錯乱又は泥酔のため、自己又は他人の生命、身体又は財産に危害を及ぼすおしれのある者
二 迷い子、病人、負傷者等適当な保護者を伴わず、応急の教護を要すると認められる者(本人がこれを拒んだ場合を除く)
2 1の措置をとった場合、その家族・知人その他の関係者に通知して、引き取り先を手配する義務を規定。「責任ある」家族、知人等が見つからない場合、公衆保健・公共福祉その他の公的機関への引継ぎ義務を規定
3・4 保護時間は、簡易裁判所の許可なきは24時間以内であることを規定。延長も5日以内までと規定
5 略
第6条(立入) 警察官は、前二条(第4条 避難等の措置,第5条犯罪の予防及び制止)に規定する危険な事態が発生し、人の生命、身体又は財産に対し危害が切迫した場合において、その危害を予防し、損害の拡大を防ぎ、又は被害者を救助するため、已むを得ないと認めるときは、合理的に必要と判断される限度において他人の土地、建物又は船車に立ち入ることができる。
1948年5月に施行された軽犯罪法においても
第1条 左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。
(略)
十八 自己の占有する場所内に、老幼、不具若しくは傷病のため扶助を必要とする者又は人の死体若しくは死胎のあることを知りながら、速やかにこれを公務員に申し出なかつた者
と記載されており、以前紹介した「兒童福祉法の解説」(厚生省児童局企画課長 川嶋三郎著 1951年)第6章児童福祉の措置及び保障 第5節「保護者のいない児童又は保護者に監護させることが不適当な児童」においても、わざわざ軽犯罪法第1条18を引用し、通報しないことが犯罪となるとしている。
このように、すでに法律として児童虐待を犯罪として取り扱う根拠法令が存在しているにもかかわらず、警察の立場は、戦前の国家警察的体質を否定するあまりか、戦前より逆に後退した面もあることは否めない。
『所謂「兒童の人身賣買事件」について』(斎藤勇 國警本部防犯課勤務 警察時報4巻6号1949年6月号所収)において、1948年に栃木県で起こった児童人身売買事件を巡って、齋藤は以下のように警察の立場を述べている。
本件(児童人身売買事件)については、前に述べた如く古くから日本の習慣にもとづくものであり、その実体が農業労務者としての雇傭関係にあるのか、又兒童の養育を目的としたものであるかにあり、それぞれ対策を異にするものであり、これについてはそれぞれの主務監督機関(本論文では、厚生省、法務省、労働省)が、その立場に於て取り締まりを行い前述の各方針に則つて、事態の改善を漸進的に行わんとしている。
従って本件に関しては警察は第二次的な立場に立つべきであり、本件が兒童の將來に極めて重大な影響を持つだけに、先づ主務機関の活動を待って、警察はそれ等の援助を求められた時に解決にのぞむべきものであると思料される。勿論明瞭なしかも悪質な勞働基準法違反等については、警察独自の立場から捜査を進めることは可能であるが、かゝる場合でも、主務機関と密接な聯けいのもと、事に当たるべきは論を待たないのである。
この文章に明らかな通り、警察は児童虐待に対して主導的な役割を果たしてもよかったにもかかわらず、「二次的な立場」に甘んじることを選択したのである。法律においてはすでに警察は虐待防止システムの重要な部分を占めていたにもかかわらず、その役割を果たそうとしなかった理由は専門家の手で解明されるべきであろう。現在、警察による通報数は増えているのは、すでに整備されている法律から見れば、当然のことなのだ。
警察は、厳しい社会的批判を浴びる中、2000年「ストーカー行為等の規制等に関する法律」の成立によりこれまでの「民事不介入」原則から「家族、恋人?の中のこと」とみなされて無視されてきた案件に積極的に介入することとなった。児童虐待も同様の性質を持った案件ではないだろうか?ストーカー行為で被害者が出た場合、警察は厳しい批判を受ける。児童虐待も本来は同様の案件だ。重大な虐待を防止できなかった場合、児童相談所だけではなく、国民(やマスコミ)は警察も批判の俎上に上げ、システムや発見保護方法の改善気運を高めていくべきなのだ。その流れの中で、より適切な法律の運用や組織の改革が進んでいくのではないだろうか。(例えば、前回の投稿で提案した、警察内の児童虐待専門部局等)
そこで、最初の問いに戻る。さて、児童虐待防止の第一義的な責任は誰が負うべきなのだろうか?
隠れた演者として、警察について考えてみたが、最後に大きな主役が隠れている。
それは、市町村長(行政機関)・市町村議会だ。児童虐待(他、様々な虐待案件)は優れて、地域の民主主義(厚生労働省風に言えば、住民自治・民主主義とは言わず「地域共生社会」と言うのだが)の課題であるにも関わらず、市町村長・市町村議会の関与の実態が必ずしも明らかにされていない。次回の投稿でここにふれて、本当に児童虐待について終わろうと思う。(間に何か別テーマを入れるかもしれないけど)