長い回り道をして、やっと児童虐待と警察の問題である。
児童虐待についての取りまとめは、こども家庭庁に移管される等、制度の枠組みが変わり始めている。
平成12年「児童虐待の防止等に関する法律」(戦後の児童虐待防止法)が制定されて以降も児童虐待が社会的に沈静化したという感触はなく、むしろ逆の風潮が報道されている。こども家庭庁の発表によれば、2022年度児童虐待相談対応件数(速報値)は、前年度を5%上回る219,170件、虐待死(心中を除く)50人であった。こうした報道が行われ、児童虐待は「深刻化」している、虐待相談対応を捌ききれない、対応する専門的人員体制が不足しているという論調が優勢だ。しかし、この言説・論調は正しいのか?事実は、客観的な史料の分析の中にある。
史料として活用するのは、厚生労働省・こども家庭庁が毎年発表する「児童相談所での児童虐待相談対応件数」と法務省が毎年発表する犯罪白書である。(両方ともWeb上に公開されている)
注1)「児童相談所での児童虐待相談対応件数」において、通報相談元の内訳を公表し始めたのが、平成22年度からなので、一つの起点として黄色で塗りつぶしている。
注2)通報相談元を警察とそれ以外で集計している。「それ以外」とは、本人・身内・近隣住民・関係機関(公的機関、保育園、学校、病院等を含む)である。
表1から読み取れるいくつかの特徴について上げていこう。
第1に、児相虐待相談対応件数の内訳である。相談対応件数の統計が開始された平成2年度1,101件→令和4年度速報値219,170件 実に199倍のも相談対応件数は激増している。通報相談元の内訳を公表し始めた平成22年度を起点に考えると、平成22年度56,384件→令和4年度速報値219,170件と3.89倍であり、警察経由は9,135件→112,965件と実に12.37倍 それ以外は当初は大きい比重を占めていたにも関わらず、47,249件→106,205件で2.25倍であった。児相の虐待相談対応は、警察がけん引していると言って過言ではない状況になっている。この傾向が今後どのように推移するか、警察と本人・身内・近隣住民・関係機関(公的機関、保育園、学校、病院等)で構成される「その外」が絶妙なバランスで半々で推移するのか、警察の比重がどんどん高まるのか不透明ではある。
第2に、児相虐待相談対応件数と検挙数との関係である。そして、どうしても見つけることができない虐待認定件数についてである。ここからは込み入った理屈っぽい内容になるかもしれないので我慢してお付き合い願いたい。
児童相談所に虐待相談がますます集中されていることは、児童虐待という反社会的行為についての社会的センサーの感度が敏感になってきている証左であり、この通報奨励こそが戦後児童虐待防止法の虐待防止の大きな柱だ。児童虐待(家族内で受ける虐待、児童が言えない立場にある場合)は「見えにくい」だからこそセンサーの数と量を増やすことは一定の合理性はある。犯罪統計の領分では、これは暗数(統計と実状の差位を表す量)を減らしていく試みでもある。
つまり、相談対応数=「虐待と疑われる行動」数であり、その情報をもとに吟味すれば児童虐待を捕捉しやすい筈である。検挙数について見てみると、検挙数は着実に上がっているように見えるが、相談対応数との比率を見るならば、低いレベルであるが微増?はしていても、検挙にいたる刑事罰を構成する行為は、一貫して1%程度で推移している。(令和3年度版犯罪白書)さらに、身体的虐待に分類される殺人+傷害+暴行+重過失致傷の検挙数の全体の検挙数に占める割合は、70~80%と虐待類型の中で断トツの割合を占めており、改善されている傾向にはないことが分かる。(恥ずかしながら投稿してから気づいたのだが、この割合は相対的な構成比なので、この要素が減っていたからと言っていて、心理的虐待につながる脅迫強要罪や性的虐待が相対的に増えるだけではある。ただ顕在化しづらいこれらの虐待の検挙率が上がることは犯罪抑制につながる可能性はある。また顕在化しづらいこれらの虐待を捜査する手法は開発続けなければならないとは思われる。)まして、虐待により死亡した児童の年齢において、圧倒的に0~3歳児が多いことを考慮すると、戦後児童虐待防止法体制で、乳幼児が虐待を受け命が損なわれる環境の改善が果たされていないことは事実と思われる。
虐待相談対応数と虐待認定数と検挙数の集合がそもそもどのような関係になっているか国は明らかにしていない。(まして、認定された虐待の数も明らかにしていない)
数学的には、ベン図で整理したほうが分かりやすい。
実際は、虐待認定数は明らかではないので点線で集合を描くと、実態は
こんなイメージ図が近いかもしれない。
虐待による重大事故が判明した場合、どの専門機関も関与していなかった事例も見受けられるので相談対応数の集合の外に虐待がある場合が想像つき、その事件は関係機関が事前に認定していなくても起こりうるのも想像できる。
現状は、虐待相談対応の集合がどんどん大きくなっているのが顕著であり、それに伴って検挙数が比例的に増えているが、比率的に減ることない。仮説的に導入した虐待認定数については集合が拡大しているのか、維持・減少なのかも不明だ。まして、どんな相関関係で3要素が動いているかも分からない。(恐らく、拡大傾向であるとはいえるが、どのような特徴を持っているのかは分からない)
児童虐待を刑事罰に発展する行為とみなすならば、どのような抑制が効果的なのだろうか?セキュリティの観点で考えると、犯罪等脅威抑止には、領域性(領域外圏に脅威の接近を抑止する物理的心理的バリア(縄張り)を構築 例 フェンス・ゲート)監視性(領域内に侵入するリソースへの脅威を早期に検知・発報して抑止する 例 監視カメラ 警報機)抵抗性(リソース周囲を物理的バリアで強化して侵害から守る 例 防犯ガラス窓 電子錠)の3要素が効果的と言われている。これは見て分かる通り、リソース(児童)が自分でこのような行動が行える環境や知力を持っている場合だ。虐待をする養親者の扶養を受けている子どもは一緒に生活をする家庭で領域性すら実現することはできない。よくて、監視性であるが、通報という外部からの監視性だけでは虐待者の機制を制することはできない。ここが、家庭内での虐待が抑止できない問題であるとも思われる。まして、虐待者となる養親者には様々な理由で追い詰められて虐待してしまう事例もあり、簡単に「悪」と裁断できないと考えられるのが問題を複雑化する。(品性の低い人格的に問題のある者が養育者の立場になった場合は完全に「悪」とは思うが)児童虐待を抑制するには、結局養親者に「手をあげることを思い止まらす」「一線を越えさせない」しかないのだ。もしシステムとして考えていくならば、自動車運転免許制度ほどではないが、養親者としての講習(法律禁止行為、子どもに何をしたら生命の危険があるのか、不適切な子育てや事象を見たら市民としてどうするのか 通報義務等を内容とした)を行うのも「手をあげることを思い止まらす」「一線を越えさせない」抑止となるかもしれない。
しかし、こんな講習を屁とも思わず虐待を正当化するどうしようもない養親者もいるだろう。犯罪を抑制する効果的な方法は、警察官を増やすことではなく、検挙率(検挙件数を認知件数で割った百分率)を上げることとされている。(警察による犯罪抑制効果の実証分析 Empirical analysis of crime deterrent effect by police force 制度設計理論(経済学)プログラム 11-16680 手塚大貴 Taiki Tetsuka)
つまり認知した事案は必ず捜査検挙され、罰せられることが明らかになることが抑止において効果的である。常習的な虐待者には、虐待は割が合わないと知らしめることが効果的ということだ。(少なくとも、わが国では様々な犯罪について、検挙率は50%超で推移している。)その者が虐待を思いとどまるためには地味ではあるが検挙率を上げるのが一計であろう。その為にも認知件数が明らかでない現状やそもそも全都道府県で児相と警察との全件共有が実現していない現状は大きな問題なのだ。また、疑わしいと警察が判断した場合、児相への通報共有化と同時に養親者の抑止や児童の保護に独自に捜査保護を行う虐待対策専門部を警察内に立ち上げるのも必要であろう。(児童虐待防止に向けた警察関与のあり方について 尾田清貴 日本法学第85巻第2号2019年9月 にはこの論点について経緯提言を詳細にまとめている。)民事不介入の原則や戦前回帰とも思われる警察の家庭・市民生活への介入への嫌悪感、警察は虐待者を捕まえるだけで虐待者や家族の更生回復を考えていないといった批判もあってか警察内に虐待対策専門部というアイディアは陽の目を見ないが、社会福祉士資格取得を要件にした専門部への警察官の配置が検討されてもよいだろうし、社会福祉士等の福祉資格を持った者が警察官として任用されることも検討されてもよいのではないか。
ここまで書いてきて、児童虐待という犯罪についての加害者側への罰とは何かを考えてみた。また、自動車免許制度を引き合いに出すのは申し訳ないが、刑事上の罰、行政上の罰、民事上の罰があると講習で教えられ、刑事罰を執行刑で償っても、民事賠償が一生ついてまわることが強調され、だからこそ運転法令違反や事故を起こしてはいけないことが運転者の心に内面化し、社会的にも規範となっていくのだ。自分と血のつながった子どもを傷つけたり殺したりした養親者は贖罪意識が湧くだろうか?自分の子どもであれば、民事賠償の対象は自分ではないか?自分で産んで自分で殺す、傷つける 自己責任と強弁する者もいるかもしれない。自分の子どもを自分で殺した場合、虐待者は誰に賠償をしたらいいのか。死亡した子どもを「未来の主権者」であり「未来の納税者、国家運営者」と規定しなおすと、虐待者は国や国民に対して重大な損失を与え、逸失利益を生じさせたのだ。まして、子どもを出産し、養育するために投下された様々な社会的サービス(医療・教育・福祉)が全て無に帰するという意味で、重大な損失を与えたことを賠償額として請求しなければ、子どもが切り開く筈だった未来も存在も無意味ではないか。(算定法は有識者に考えてもらえばいいが、贖罪意識が持続し再犯意識が生じないほどの額にはしてもらいたいとは思う。)行政罰についても、婚姻届の一定期間の不受理や観察期間の設定、出産後の同居制限等憲法の人権規定に抵触しない範囲で行政手続き的に不自由を感じるペナルティを検討することもあり得ると思われる。
*統計上、優位に残っている強制性交等・強制わいせつ罪から推察される性的虐待も、これを「魂の殺人」と見なし、子どもを産み育てる未来を歪ませた賠償を被虐待者にするのは当然だ。
最後に、児童虐待防止の一義的な責任者は誰なのかという問題が残っている。次の投稿でこの点を整理して児童虐待についてとりあえずの結論をつけていきたい。