年度末なかなかパソコンに向き合うまとまった時間が作れず、更新が遅れて申し訳ありません。

児童相談所に関する投稿がもう少しかかるので、今回は最近支援の現場でぶつかった問題について書いてみたいと思う。

最近、ある機会があり、今更だが「てんかん」の名称が大きく変わっていることに気が付いた。
昔は、「てんかん」には「全般発作」「部分発作」の大きく二つのカテゴリーがあり、発作中の意識のあるなしで、「単純部分発作」「複雑部分発作」に分類していた。さらに最初は「部分発作」でも「全般発作」に発展する発作は「部分発作の二次性全般化」(二次性全般発作)と名づけることになっていた。以上のようにてんかんの発作型を理解していた。てんかんの発作型を理解することは、薬物療法で治療薬を選択する上で大切だ。全般発作は、デパケン(バルプロ酸ナトリウム)が第1選択薬となるし、部分発作ではテグレトール(カルバマゼピン)が第1選択薬、強直間代発作ならばフェノバール(フェノバルビタール)が選択される等々。眼球の偏移方向やけいれんの種類を必死で覚えたものだ。まして、あまり指摘されないが、てんかんが精神活動に対して影響を与えることがある。発作間欠期、発作後精神病や薬物療法による強制正常化等の交代性精神病と呼ばれる、妄想、幻覚、滅裂言語、多形性の感情・妄想症状等、意思疎通や表出言語に課題のある知的障害児・者にとっては「強度行動障害」と勘違いされる異常行動がそれだ。

国際坑てんかん連盟(ILAE)が2017年発作型分類を提案したと最近知った。
脳全体において棘波が確認できる「全般発作」は「全般起始発作」、脳の局所で棘波が確認できる「部分発作」は、「焦点起始発作」に名称が変わり、さらに「単純部分発作」は「焦点意識保持発作」、「複雑部分発作」は「焦点意識減損発作」に、「部分発作の二次性全般化」(二次性全般発作)は「焦点両側強直間代発作」名称が変更された。発作の原因と機序が分かる名称に変更されたと考えればなるほどと思う変更だ。
以上の分類を最新のテキストで読んでいて、ついでに抗てんかん薬の新薬の解説も分かりやすく載っていたので、通読した。支援していて、だんだん見慣れない名前の抗てんかん薬とかが医師から処方され、ついていけないなぁと思っていたので、良い機会とも思って読むことにした。

新規抗てんかん薬は発作コントロールに優れている評価を得ているし、他に色々な特徴はあるのだが、従来の抗てんかん薬とガバペン以降の新規抗てんかん薬で注目したいのが、新規抗てんかん薬には腎代謝が機序である薬が多い点である。ガバペンチン(ガバペン)、レベチラセタム(イーケプラ)、ラコサミド(ビムパット)はその典型である。従来の抗てんかん薬は肝代謝が主である。だから、肝機能に障害が出やすいので、モニタリングも血液検査で肝機能の数値を診てきた。腎代謝の新規抗てんかん薬は、肝機能にダメージを与えないので、相互作用も起こりにくいとの事で重宝がられている。

医学の発達によって、てんかん発作のコントロールについて進んでいることは知的障害児・者の方が併存症としててんかんが多い現状を考えると喜ばしいことだ。しかし、新たな問題が起こると想像される。むしろその方が深刻かもしれない。
ガバペンやイーケプラの「深刻な副作用」に急性腎不全が上げられている。居住サービスで提供する医療支援には、新規抗てんかん薬を服用している利用者については、肝機能の数値だけではなく腎機能の数値をモニタリングする必要があるということだ。腎臓は一度機能が落ち始めると回復しないどころか、どんどん無理して機能低下を引き起こす臓器だ。急性腎不全で機能低下した腎臓は当然ケアがない限り慢性腎不全に転げ落ちていくし、急性腎不全でなくても新規抗てんかん薬によって腎臓にダメージが蓄積し、徐々に腎機能が低下していき、慢性腎臓病(CKD)の段階に陥る可能性を心配してもいいかもしれない。

成人の1330万人(成人の8人に一人)が慢性腎臓病に罹患している国民病になっている。国民の400人に一人が透析療法を受けている。(高齢者ともなると100人に一人)こんな現状を考えると、知的障害児・者は慢性腎臓病や人工透析と全く無縁ではない罹患率であるし、新規抗てんかん薬が普及していけば副作用として慢性腎臓病になっていくことが多くなるのではないかと懸念してしまう。

知的障害児・者に対する腎不全治療体制整備はどうだろうか?
2009年に発刊された「知的障害者の腎不全治療を考えるーもっと積極的な治療にチャレンジをー」(株式会社 日本医学館 刊)によると
1987年当時 IQ40未満の知的障害を有する障害児は、家族が強く望んだとしても腎代替療法の候補となりえない。(Dr、Fine)
2002年   シビア・メンタル・リターデーション(重度精神発達遅滞)には腎代替療法は相対的非適応(ヨーロッパ腎学会誌)
と否定的であったが、
本書での結論は、腎以外に問題がなければ、障害児の腎移植は非適応にならないと結論付けている。しかし、本書出版時点での実施例は少なく、第3者献腎移植はなく、生体間腎移植(つまり親)が障害児(者ではない)に実施されるまでが日本での実施状況であることが報告されている。成人になってからの腎移植については報告例は記載されていない。’(ちなみに献体腎は、提供者が70歳未満であることが望ましいとされている。)

本書所収の総合討論の中に「献腎そのものが少ないということが非常にジレンマで、限られた社会資源(つまり提供された第3者の腎臓 筆者解説)をいかに有効に使うかということの軋轢は絶対出てくると思います。」という医師の発言は、重度知的障害者と働き盛りの健常者のどちらかに1つの腎臓を移植するかという場面となれば、命の選別を求めている又は求めざる得ない事を突き付ける重い発言だ。こんな倫理的な究極の選択にならないようにするために人工透析が平等に受けられるようにすべきだが、知的障害者が4時間も血液透析の機械を取り付けて安心して過ごすことができる医療機関がどこにあるだろうか?
知的障害者が腎不全治療について平等に医療が受けられない厳しい現実があるもしくは今後ますます予想されることを制度設計者や提言者はどう考えているのだろうか?知的障害者が平等に医療にアクセスできて安心して治療を享受できること抜きに地域共生社会なんてものを考えることができるのだろうか。利用者の腎機能不全のリスクを考えるたびに過剰かもしれないが暗い気持ちになる。知的障害児・者への健常者と同等・平等な医療及びアクセス権の保障についてもっと具体的に考えてもらいたいと切に願う。

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