年度内ギリギリで成立した児童虐待防止法は、同年8月1日昭和8年勅令第217号において、10月1日から施行することが定められ、翌日8月2日、「児童虐待防止法第7条ニ依ル業務及行為ノ種類指定ノ件」(昭和8年内務省令第21号)と「児童虐待防止法施行ニ関スル件依命通牒」(昭和8年発社第104号各地方長官宛社会局長官通牒)が発せられた。
「児童虐待防止法第7条ニ依ル業務及行為ノ種類指定ノ件」は、衆議院・貴族院でかなり論議された内務大臣が定める禁止または制限できる業務および行為の種類を定めた内務省令である。
一 不具畸形ヲ観覧ニ供スル行為
ニ 乞食
三 軽業、曲馬其ノ他危険ナル業務ニシテ公衆ノ娯楽ヲ目的トスルモノ
四 戸戸ニ就キ叉ハ道路ニ於テ物品ヲ販売スル業務
五 戸戸ニ就キ叉ハ道路ニ於テ歌謡、遊芸其ノ他ノ演技ヲ行フ業務
六 芸妓、酌婦、女給其ノ他酒間ノ斡旋ヲ為ス業務
衆議院に提出された政府原案が一から五までの項目で復活しており、衆議院の顔を立てながら実を取るという内務省の目論見は達成されたと言える。また新たに「芸妓、酌婦、女給其ノ他酒間ノ斡旋ヲ為ス業務」が禁止制限業務に追加されたのは、貴族院での論議も影響があったとも見られる。(貴族院昭和8年3月23日議事録 金杉委員長等発言)(なお、衆議院議事録においては、芸妓・酌婦等の人身売買については指摘する発言が記されていない。)とは言え、内務省社会局は児童虐待防止法制定に向け、昭和6年8月1日を現時点とした「被虐待児並に虐待を誘發する惧ある状態にある兒童數調」において、藝妓(舞妓を含む)・酌婦・女給等を「虐待を誘發する惧ある状態にある兒童數」という項目の中に分類していたことから、芸妓・酌婦等の人身売買についてすでに虐待と認識していたと考えられる。
本指定がどれほどの効果を発揮したかは後段で示すが、政府・内務省としては、以上の業務並びに行為は児童虐待に該当すると認識していたと言えるだろう。
戦前は、現在の都道府県知事にあたる地方長官は、住民公選ではなく、内務省が管轄する勅任官であった為、内務大臣・社会局長は地方長官に命令できる立場にあった。そのため、社会局は地方長官を上意下達的に統制して虐待防止に当たらせる指揮系統の明確な体制を取りえたのである。その際の具体的な運用指示が、「児童虐待防止法施行ニ関スル件依命通牒」ということになる。
被虐待児の発見体制については、
一 不遇児童ノ発見ハ警察署長、市町村長ヲシテ之ニ当ラシムルノ外方面委員、学校職員等広ク各方面ノ協力ヲ求メタレタキコト
*戦前の市町村長も、住民公選ではなく、明治21年(1888年)の市制町村制が制定の際、市長は市会から推薦のあったもののうちから内務大臣が選任、町村長は町村会で選挙。(府県知事の認可必要)であったが、大正15年(1926年)府県制、市制、町村制等改正により、市長は市会による選挙により選任、町村長は町村会で選任後の府県知事の認可廃止。
十 方面委員、学校職員等ヲシテ本法施行事務ヲ補助セシムル場合ニ於テハ特ニ不遇児童ノ発見及処分後ノ監督並ビニ受託者ノ斡旋等ニ当ラシメ其ノ指導訓練ニ付テハ十分留意スルコト
地方長官(知事)が、警察署長・市町村長に、方面委員・学校職員の協力を得ながら不遇児童の発見することを指揮し、不遇児童が被虐待児童であり法第2条に基づいて保護処分をする場合、方面委員・学校職員が経過観察・支援をしていくことが明記されている。現在のように、早期発見について、「学校、児童福祉施設、病院、都道府県警察、婦人相談所、教育委員会、配偶者暴力相談支援センターその他児童の福祉に業務上関係のある団体及び学校の教職員、児童福祉施設の職員、医師、歯科医師、保健師、助産師、看護師、弁護士、警察官、婦人相談員その他児童の福祉に職務上関係のある者は、児童虐待を発見しやすい立場にあることを自覚し、児童虐待の早期発見に努めなければならない。」(児童虐待の防止等に関する法律第5条)と関係者の努力義務にとどめ、警察への全件共有についても都道府県によって足並みがそろわない現状と比較するならば、指揮系統や責任の所在について明確な体制を想定していたと思われる。
ニ 法第二条第一項各号ノ処分(訓戒・条件付監護・収容保護のこと)ヲ為スニ当タリテハ十分状況ノ調査ヲ為スハ勿論ナルモ調査ニ際シテハ関係者ノ名誉ヲ尊重シ秘密ヲ厳守シ私生活ニ対スル無用ノ干渉ヲ避ケシムルコト
不遇児童の調査や保護処分やその形態の決定についても、良くも悪くも十分な調査、名誉プライバシーの保護が原則とされていたことも注目しておく必要がある。
また、前回の投稿でも触れた民間団体については
本法ノ目的達成ハ官民ノ協力ニ俟ツ所大ナルヲ以テ努メテ民間保護団体ノ発達ヲ計ルコト(十一)
とし、民間保護団体の発展を支えていくことも重要な防止対策であることを明記している。
訓戒・条件付監護・収容保護については
訓 戒:単ニ非行ヲ指摘スルニ止メズ将来遵守スベキ事項ヲモ指示スルコトヽシ其ノ要旨ヲ書面ニ記載シタル上官公吏ヲシテ手交セシムル等有効ナル途ヲ択ブコト(三)
条件付監護:書面ニ依リ為シ監護教育ニ直接必要ナル条件ノミナラズ必ズ児童ノ保護者ヲシテ児童ノ状況ニ付定期ニ又ハ随時ニ報告書ヲ提出セシムル等監督上必要ナル条件ヲモ附シ爾後ノ注意ヲ怠 ラザルコト(四)
収容保護:受託者ニ対シ監護教育又ハ監督上必要ナル事項ヲ指示スルコト(五)
上記のように、児童の保護責任者に対する処分の形式・手順が簡潔ではあるが、明確に規定されている。
具体的な運用について、散文的であるが、まとめてみると、内容的に決して家族にその解決を押し付けると云ったものでもないし、国家としての責任体制も明確にした近代的な制度設計がなされてたと評価できる。
制度設計と現実の防止実績についてはどうであろうか?
運用実態について整理された貴重な資料が、『日本<子どもの権利>叢書 8 児童虐待防止法解義』の解説(齋藤薫 お茶の水女子大学院)に所収されている。(第2条保護処分件数、第7条禁止制限件数については、『日本社会事業年鑑』(中央社会事業協会)昭和8年~18年版より、齋藤氏によると『年鑑』中に同じ年度で統計値が異なっている場合、もっとも信頼性の高い数値を採用しているとのこと。)保護処分件数・禁止制限件数のみを抽出して編集したのが。次の表である。
先ず、衆議院・貴族院でその是非ついて大いに議論になった第7条の運用状況を見てみよう。
一目見て分かるのは、起訴に至るまでの案件が極めて低いことである。その内訳を分析する際、本書に所収されている『兒童を護る』(児童擁護協会 昭和8年 下村宏他著)に綴じこまれている「被虐待兒童數並に虐待を誘發する惧ある状態にある兒童數調」(内務省社会局調査)と『兒童保護事業』(社會事業叢書第6巻 昭和14年 伊藤清著)に所収されている昭和12年度の「法第7條の規定に依る禁止制限に對する違反件數調」を合わせたものが、次の表である。
社会局調査では、8月1日から10日のたった10日間でさえ、児童を7369件もの児童虐待(誘発)行為が報告されていた。児童虐待(誘発)行為が蔓延している実態把握の上で、内務省は児童虐待防止法に第7条を設けて、規制をかけようとしたのである。しかし、第7条違反件数は想定された実態より大幅に少なく、その大半が起訴にまで至らない内容であった。
昭和12年度には、不具畸形を見世物にする行為、軽業・曲馬、大道芸については、ほとんど確認されていない。乞食・路上販売は件数として多く見られるが、それも不起訴であることが大半であり、虐待というより貧困からのやむを得ない行為として不起訴になった可能性が高いと見受けられる。実際、『日本<子どもの権利>叢書 8 児童虐待防止法解義』解説では、「何が虐待防止法だ/心なき法に引き離さるゝ父子/抱き合って涙の抗議」(東京朝日新聞 昭和11年7月16日)という記事で、屑拾業の父親の実子が辻占を売り歩いていたとして東京府知事から児童擁護協会「子供の家学園」に収容委託された際、いったんは収容に同意した父親が息子を学園から連れ去り、親子ともども「逮捕」され、父親が「親と子がこんなにたよりきっているのになぜ引き離す」と合掌せんばかりに子供と一緒にいることを係官に懇願したという事例を紹介している。
問題は、「芸妓・酌婦・女給他酒の斡旋」という女児の人身売買や性的接待の強要を想起させる行為の極端な少なさ・ギャップである。昭和5年は昭和恐慌が始まり、「娘の身売り」をする農家が東北地方等に激増したともいわれる。「芸妓・酌婦・女給他酒の斡旋」に14歳未満の女児が流入してきたことが、昭和5年内務省調査で確認された結果とも推察される。しかし、昭和12年段階では、昭和恐慌から立ち直り「身売り」自体が少なくなったのか、身売りをされる対象が14歳以上のため虐待防止法の対象から外れたのか容易に判断できない。(水商売や公娼制度がなくなったわけではないので、単に虐待防止法の対象年齢から外れているだけのように推定されるが、専門家の意見をお持ちしたいところである)
いずれにせよ、第7条規定は、運用について考慮しなければならない課題をはらみながらも、女児の人身売買以外は、それなりの効果があったと結論付けてよいのではないだろうか。
次に、前掲の表に戻り、第2条の運用状況を見てみよう。
児童虐待防止法は、当初年間保護児童延べ35万人、必要経費15万円の予測でスタートしたと言われているが、表を見る限り、保護処分を受けた児童数は極めて低いが、この数字はどのように評価すべきなのであろうか?
*内務省社会局調査「被虐待兒童數並に虐待を誘發する惧ある状態にある兒童數調」は保護が必要な児童総数を12737人としているが、その93%にあたる11926人は、「芸妓他其れに類似の業態にあるもの」「街上に於て商賣を營まさるゝもの」「報酬を以てする養育関係にあるもの」という女児の人身売買や強制的な児童労働である。
前掲の『兒童を護る』に「著しき兒童虐待の事實」として、昭和4年7月から昭和7年6月の3年間に「新聞紙紙上に報ぜられた」虐待事案が集計されている。満3年間で350件676人つまり1年平均120件220人程度が明らかな虐待としての認知数として考える基準であろう。また、「被虐待兒童數並に虐待を誘發する惧ある状態にある兒童數調」においては、「傷害遺棄其の他の方法により虐待されたるもの(昭和5年中に検事局に送られたる事實)」と認定される件数として128人を計上している。この2つの数字を基準に考えると、各年度の保護処分総数は、同等から最大比2.5倍であり、著しい明らかな虐待については、当時としてはまずまずの摘発保護をしていたように見受けられる。ただ、訓戒処分ではあまり目立たないが、条件付監護や収容委託においては親権者・後見人による案件が増える傾向にある。虐待者は、同居している血縁のある保護者(親)と思われる。「入所施設、児童虐待、少子化をつなぐもの② 戦争孤児に知的障害児はいたのか」において、終戦直後9万人以上の戦争孤児が近親者に引き取られ虐待を受けていたと推定したが、ここから振り返るに、戦前の児童虐待防止法は養育責任のある親からの保護には一定の役割を果たしたが、近親者や周りの大人たちも含めて、社会全体として児童擁護の意識を高めることには至っていなかったと言えるのではないだろうか。
児童虐待防止法が、児童の保護を謳いながら、女児の人身売買や社会全体の啓発について限界性を残したのだろうか?
最後にその回答を、森山武市郎「少年法」(日本評論社)に語ってもらおう。
「少年犯罪対策の法律組織は少年法の制定を以て一應の整備を見たのであるが、然し尙殘された一つの分野があった。卽ち豫防の領域である。尤も少年法でもこの點に鑑みて、犯罪を爲したる少年のみならず犯罪を爲す虞ある少年をも保護し、此の意味に於て豫防的機能を有するのであるが、然し其の手段方法は、既に少年が何等かの不良傾向にあることを條件として開始せられ、少年自體を直接に保護することを認めるにとどまる。然るに少年の犯罪乃至不良行爲の原因は少年自體の中にあるよりは其の外部にあることが寧ろ多いのであるから、豫防的機能を完からしめんが爲めには、此の外部より作用して少年を犯罪乃至不良行爲に陷らしむるところの條件を直接處理し得る機能が與へられることを要するのである。」
「これら虐待酷使は被虐待兒童の生命を危くし健康を害し性能の發達を阻むのみならず、延いては兒童の德性を損傷し不良行爲又は犯罪行爲を發生せしむるの誘因になるから、これらの兒童の保護救濟と共に虐待行為禁遏の方策を講ずることは、人道的感情からばかりでなく犯罪防遏の立場からも緊要の事柄と見られた。」
児童虐待が精神の成長を歪め、犯罪者を作り出す遠因であるという認識の上で、司法省は児童虐待防止法を高く評価したのである。先に紹介した児童擁護協会の『兒童を護る』においても「序において」「無惨!虐めさいなまされる小さき子等」にも同様に未来の犯罪者を作らない為の施策の一端であることが強調され、補強史料として「犯罪者の兒童期に於ける環境調」を所収している。こうした治安維持的な視点からは女児の人身売買や社会全体の啓発が零れ落ちていくのもあり得る話であった。
しかし、戦前の児童虐待防止法が実際の児童虐待に対して一定の防止の役割を果たしていたことは明らかであり、それなりに効果がある有効なシステムであったと言えるだろう。
システムとは実践と検証、PDCAサイクルに基づいて、修正をし改善され完成形に近づいていくものであると述べたことがあった。戦前のシステムには児童相談所という存在はなかった。どのような課題や修正の上に児童相談所は生まれたのか?それは正しい制度の総括の上に成り立っているのか?次回の投稿ではその点を考えてみたいと思う。
(追記)
明けましておめでとうございます。年末までに公開しようと思いましたが、間に合わず今日となってしまいました。つたないブログですが、本年もよろしくお願いいたします。