前の投稿を補足する意味で、「おむつ」や排泄ケアについて、歴史はどう進んできたかを素描しておきたい。
衛生材料関連の業界団体である一般社団法人日本衛生材料工業連合会(略称・日衛連)のホームページで、紙おむつがどのように開発されてきたのかを簡略にまとめている。(https://www.jhpia.or.jp/product/diaper/data/index.html#title01)ナチスドイツに経済封鎖されたスウェーデンは1940年代半ばに綿花の輸入が止まり、極端な綿布不足に陥ったため、その打開策としてスウェーデン政府は、豊富な森林資源を活用して、おむつを綿布から紙パルプによるおむつに切り替えたのがその始まりである。
綿布によるおむつは何故歴史に登場してきたのか。「モノと子供の戦後史(天野正子 石谷二郎 木村涼子著 吉川弘文館2007年3月)Ⅰ=子どもの身体をつつむ容れモノ(オムツ―生と死の間際の必需品―…石谷二郎著)によると、おむつは日本では江戸時代、西洋では18世紀以降に登場したモノである。本書によれば、それ以前は大小便を受け止めるおむつに相当するモノは特になく、西洋では「スウォドリング」(swaddling)日本では「おくるみ」と呼ばれる大きな布で包まれるだけであったとある。つまり、基本的には大小便とも垂れ流しの状態、便尿汚染のままで赤ん坊は育てられてきた。
ルイス・フロイスが、戦国時代に日本に訪れた時の見聞をもとに書かれた
TRATADO EM QUE SE CONTEM MUITO SUSINTAE ABREVIADAMENTE ALGUMAS CONTRADIÇÕES E DIFERENÇAS DE CUSTUMES ANTRE A GENTE DE
EUROPA E ESTA PROVINCIA DE JAPÃO (1585)
邦訳 「日欧文化比較」 又は「ヨーロッパ文化と日本文化」(岩波文庫)では
「ヨーロッパの子供は長い間襁褓(むつき)に包まれ、その中で手を拘束される。日本の子供は生まれてすぐに着物 qimões を着せられ、手はいつも自由になっている。」
「われわれの間では普通大人の女性が赤児を首のところに抱いて連れていく。日本ではごく幼い少女が、ほとんどいつでも赤児を背に付けて行く。」(第3章 児童およびその風俗について より)
フロイスは、簡明に「ヨーロッパの子供は長い間襁褓(むつき)に包まれ、その中で手を拘束される。」としているが、実際ヨーロッパの風習はそれどころではない。フランスの博物学者、数学者、植物学者であるビュフォン伯ジョルジュ=ルイ・ルクレール(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon, 1707年9月7日 – 1788年4月16日)が著した「一般と個別の博物誌 (原題:Histoire naturelle, generale et particuliere) 」(通称 博物誌)第3巻所収「幼少期について」(1749年刊)
「赤ん坊は母親の胎内を出て、手足を伸ばす自由を楽しむ間もなく、さらに残酷な束縛に置かれる。無力な乳児の頭は一か所に固定され、腕と脚は厳しく拘束され、関節一つ動かせないほどきつく包帯で巻かれる。圧迫が呼吸を妨げない程度であるか、あるいは産婆が横向きに寝かせて口から自然に分泌物が排出されるように配慮していればまだ良い。なぜなら頭を動かして排出を促すことも許されないからだ。では、我々のようにおむつ(これは、内容的に「スウォドリング」(swaddling)を指す。Looker-on注)で縛り付けるのではなく、子供を覆ったり衣服で包む民族の方が賢明ではないだろうか。シャム人、日本人、インド人、黒人、カナダやバージニア、ブラジルの原住民、そして南アメリカのほぼすべての住民は、赤ん坊を綿の吊り床に裸で寝かせたり、毛皮で裏打ちした揺り籠に入れる。これらの習慣は確かに我々の方法より不便が少ない。子供をくるむ場合、束縛が不快感を与えないわけはなく、自由にさせた場合に取るかもしれない姿勢よりも、身体の形を損なう傾向が強い。おむつ帯は、若い女性が体型を保つために着用させるコルセットに例えられるが、実際には予防するとされる以上に多くの病気や奇形を引き起こすのである。 もし子供たちがおむつに包まれている間に自由を求めてする努力が有害であるならば、その中で彼らが強いられる無活動はおそらくさらに有害である。運動不足は自然に手足の成長を遅らせ、体の力を弱める。したがって、自由に動き回れる子供たちは最も丈夫でなければならない。このため、古代ペルー人は乳児に腕を自由に動かせるゆるい袋を与えた。その後、子供が成長するにつれ、リネンで裏打ちした地面に掘った穴に腰まで埋め、腕は自由に動かせ、頭を動かし体を曲げても転んだりけがをしないようにした。歩けるようになるとすぐ、少し離れたところから乳房を見せ、歩く動機づけとした。黒人の子供たちは乳首にたどり着くためにより大きな苦労を強いられることが多く、母親の腰に足を絡ませ、何の助けも借りずに支えながら乳房をつかみ、母親が動いたり働いていても安全に吸い続ける。これらの子供たちは生後2ヶ月で歩き始める、というより膝と手で這い、この運動が後にこの姿勢で走れるようにし、ほとんど足で走るのと同じくらい敏捷になる。」(聖パウロ出版電子文庫訳)
*原文や訳文について差別的なニュアンスが使用されているが、歴史的文書としてそのまま転載した。
新生児は首も座らず、身体がグニャグニャであるため、支えを与え四肢の変形を防ぐため、窒息しない程度にこけし人形のようにぐるぐる巻きにして動かないようにしていたのである。これが、「スウォドリング」(swaddling)の実態であった。従って、排泄のたびに布が解かれることはなく尿や便にまみれたまま過ごすことを強いられ、壁の針にかけられたり、荷物のように持ち運びされたりとモノのように扱われたともいう説もある。当時のヨーロッパでは、乳垢や脂漏、瘡蓋はむしろ栄養良好の証とみなされ、汚い子ほどよく育つとされていた。また、当時のフランス・パリは「糞尿の都」とも呼ばれ、一般住居に便所はなく、庶民は「部屋の壺(おまる)、穴あき椅子」で用をたし、朝方に道端に捨てるのが日常の生活習慣であった。当時豪奢を極めたベルサイユ宮殿にさえ特定の排泄場所=トイレはなかった。まして、赤ん坊の主食は主として母乳である時期は、「ピピ(おしっこ)とカカ(うんち)」はさほど「汚物」という認識もなかったとも言われている。推察するに、日本のように高温多湿でもない為、臭気とかもさほどきにならなかった可能性もあるかもしれない。
こうした赤ん坊の処遇に対して、強く批判否定をしたのが、ルソーである。ルソーは有名な「エミール―教育についてー」(原題:ÉMILE OU DE L’ÉDUCATION 1762年刊)ビュフォンの成果を取り入れ、エミールで次のように論を展開した。
「子どもが母の胎内を出るとすぐに、体を動かしたり、手足をのばしたりする自由が得られるとすぐに、人は子どもに新たな束縛をあたえる。産衣にくるみ、頭を固定し、足をのばさせ、腕を体のわきに垂れさせて、ねかせておく。あらゆる種類のきれやひもを体にまきつけ、そのため体の向きをかえることができなくなる。息もできないくらいしめつけられていなければしあわせだ。体を横むきにねかされて、口からでてくる液体がひとりでに流れでるというふうになっていればしあわせだ。子どもはよだれが流れでるようにするために頭をふりむける自由さえあたえられないだろうから。」
(訳書でも、この部分は「」がついた引用部分である。賢明な読者ならば、この部分が先ほど引用したビュフォンの博物誌の一節と同一であることが分かるだろう。ちなみに岩波文庫ワイド版では訳注にて、ビュフォン博物誌第4巻で、カリブ人の記述としている。)
生まれたばかりの子どもは、手足をのばしたり、動かしたりする必要がある。長いあいだ、糸玉のようにちぢこまっていた麻痺状態から手足を解放する必要がある。なるほど、子どもは手足をのばさせてもらえるが、それを動かすことをさまたげられる。頭も頭巾でしめつけられる。まるで、子どもが生きているように見えるのを、人は心配しているようだ。
そこで、大きくなろうとしている体の内部の力は、もとめている運動にたいして、うちかちがたい障害をみいだす。子どもはたえずむなしい努力をして、力をつかいはたし、そのため発育がおくれることになる。産衣にくるまれているよりも母の胎内にいたときのほうがそれほど狭くるしい思いをせず、拘束もされず、しめつけられもしなかったのだ。これではなんのために生まれてきたのか、わたしに はわからない。
子どもの手足を動けないようにしばりつけておくことは、血液や体液の循環を悪くし、子どもが強くなり大きくなるのをさまたげ、体質をそこなうだけのことだ。こういうむちゃな用心としないところでは、人間はみな大きく強く、均整のとれた体としている。子どもを産衣でくるむ国には、せむし、びっこ、がに股、発育不全、関節不能など、あらゆる種類のできそこないの人間が、うようよいる。人は、自由な運動によって子どもの体がそこなわれることを心配し、生まれるとすぐにかれらをしめつけることによって、体をそこねようとしている。かたわをこしらえまいとして、好んで手足のきかない人間をこしらえている。
こういう残酷な拘束が気質や体質に影響せずにすむだろうか。子どもたちが感じる最初の感情は苦痛の感情である。子どもはもとめているあらゆる運動にたいして、それをさまたげるものをみいだすにすぎない。鉄鎖につながれた罪人よりもっとみじめなかれらは、むなしい努力をし、 いらだち、叫ぶ。かれらが発する最初の声は泣き声である、とあなたがたは言われるのか。まったくそのとおりだと思う。あなたがたは子どもが生まれたときからかれらに逆らうようなことをしている。かれらがあなたがたからうけとる最初の贈り物はかれらの身をしばる鎖だ。かれらがうける最初の待遇は責苦だ。声のほかには自由になるものをもたないかれらは、どうしてそれをもちいて不平をいわずにいられよう。かれらはあなたがたがあたえる苦しみにたいして泣き叫んでいるのだ。そんなふうにしばりつけられていたら、あなたがたはかれらよりもっと大きな声をあげて叫ばずにはいられまい。
*参考にした岩波文庫版エミールは、1962年訳出本であり、原文や訳文について差別的な訳が使用されているが、歴史的文書としてそのまま転載した。
ルソーはここからスウォドリングで赤ん坊を理不尽にも拘束する理由として、こどもに愛情をかけなくなった母親や全然愛情を感じない他人の子の授乳をする乳母の存在を上げ、「母親がすすんで子どもを自分で育てることになれば、風儀はひとりでに改まり、自然の感情がすべての人の心によみがえってくる。国は人口が増える。」と血のつながった母親の母性の復活を説いている。重要なのは、赤ん坊の自由な成長の保障として「スウォドリング」(swaddling)からの解放が求められたという事である。
「日本の子供は生まれてすぐに着物 qimões を着せられ、手はいつも自由になっている。」というフロイスの日本の子育てに対する簡潔な表現は、ビュフォン・ルソーが求める自由な成長の保証につながっている。この子育てには、赤ん坊に対する生理学的な認識が裏打ちされている。ビュフォン・ルソーより少し前の世代にあたる医師の香月牛山(1656-1740)が著した「小児必用養育草」(1703年序)では、
「日本の風俗にて、生子に着する衣類に紐をつけて、二、三歳までは、ゆるりとむすびてをく事なり。これも小児は熱つよきものなれば、ねつをつつみこめまじきとの事なるべし。三、四歳にいたりて、 長(おとな)のごとくを帯をさする事なり。」(巻一)
(訳 日本の風習では、新生児に着せる衣服にひもをつけ、二、三歳ではゆるく結んでおく。これも乳幼児は活気が強いものなので、熱を包み込まないようにとのことに違いない。三、四歳になってから大人のように帯をしめさせる。)
「『聖恵論』という書(ふみ)にも、「小児は熱つよければ、一期を過て後、新なる衣類、綿を着せしむべし」と見たり。一期とは去年生れたる月日より、今年にあたる月日をいふ。和俗のいふ所の誕生日なり。」(巻一)
(訳 「聖恵論」という書物にも、「小児は熱気が強いので、一期が過ぎてから、新しい衣類や綿を着せる」とある。一期というのは去年の生まれた月日に対応する今年の月日のことで、日本で一般にいう誕生日である。)
当時の漢方的な見地や限界もあるかもしれないが、赤ん坊の未熟な体温調節機能という点から、着物を着させて、衣類に対して微妙な調整を行っていく必要性を説いているのである。生理的発達に応じたケアという理念や母乳授乳の推奨が垣間見え、その点で母親の健康状態や養育環境を考慮して、乳母や諸母を厳格に選定する必要性についても説いており、ルソーの批判とは一線を画している。さらに注目すべきは、
「すべて小児の襁褓・尻当の類は、 布にても木綿にてもよし。尻当をしきりに取替て、大小便の湿にあたらしめざるべし。しめりたる襁褓の類、腰尻のあたりにをく事久しけれは、かならず肛門に瘡を生し、その汁のつく所、皆瘡となりて、 乳母も其瘡をうつり、家内にうつり、蟻起するものなり。能々心を付べき事なり。」
(訳 すべて小児のおむつや尻当ては、麻や葛、苧(からむし)などを織った布や木綿でつくってもよい。尻当てを頻繁に替えて、大小便の湿毒にあたらないように努める。湿ったおむつを腰や尻に長く当てておくと、 必ず肛門にできものができ、その膿のついたところがみんなできものになってしまい、乳母にもできものがうつり、家中に蔓延してしまう。充分注意すべきである。)
として便尿の垂れ流しによる便尿汚染は、赤ん坊の健康を損ね、乳母・家族にも害毒をもたらすという公衆衛生的な注意喚起も行われ、便尿の垂れ流しにはこまめにおむつや尻当てを交換することが奨励されていたのである。(「日本ではごく幼い少女が、ほとんどいつでも赤児を背に付けて行く。」とあるように、赤ん坊をおんぶするのであるから、皮膚が接触して子守や乳母に感染することもあったであろう。)
和洋の現状を概観すると、排泄ケア・おむつは、①乳児の身体的自由の確保や発達支援②体温調節③乳児自身・介助者、家庭、ひいては社会における公衆衛生という目的を満たすために求められたものであることが分かる。おむつの機能も持つ保育器として「いずめ」「えじこ」「つぐら」が昭和初期まで農村で使用されたともあるが、一般庶民は子だくさんや農作業、商いに忙殺される中、おむつを取り替える回数をいかに少なくするかに工夫を重ねたとされている。愛情や理念はともあれ、やはりおむつを取り替えたり、洗ったりすることのしんどさをいかに合理的効率的に片付けるかという思いに勝るものはなかったのだろうかと思われる。そのため、おむつが現在も生き続けているのは、さらに④母親・保育者の負担軽減と言う目的も追加されるだろう。おむつ等は、赤ん坊の養育について、母親や保育者を解放していく方向目指してきたように見受けられる。育児用の人工ミルクの開発もその流れの中にあるだろう。ただ、赤ん坊の排泄の自立支援は成長が見込めるから大変とは言え期間としては限定的で、母親・保育者のモチベーションも保ちやすいかもしれない。ありていに言えば、赤ん坊の便尿汚染は双方にとって不快な事象であるため、双方ともに解決するモチベーションが生じる。様々な要因は考えられるが、行動分析的に考えるならば、それが不快からの逃避となって、赤ん坊は排泄が自立していく構造になっていると分析することは可能である。(もちろん、不快からの逃避と言う側面にとどまらず、トイレでできたことをほめるという社会的承認の獲得と言う側面からも赤ん坊が排泄スキルを習得し行動変容をしていくとも言える。)
高齢者へのオムツの前近代における使用実態は文献で確認することは出来なかった。歴史的には、「武士の介護休暇 日本は老いと介護にどう向きあってきたのか」(﨑井将之 河出新書2024年)によると、江戸時代まで高齢者の患う病の代表は、中風(心疾患、脳血管障害に起因すると思われる麻痺)や眼病による失明と言われており、これが要介護状態に陥る原因と言われていた。高齢者については、赤ん坊とは異なり、人によっては加齢により排泄に関するADLが落ちていく。また、人によっては便尿汚染を不快なものとして認知する力も落ちていくかもしれない。そして、その期間は天寿を全うするまでの見通しの立たない期間であり、介護者も本人も排泄の自立を維持していこうとするモチベーションが保ちにくい。
*1775〜76年に訪日したスウェーデン医師のカール・ペーテル・ツンベルクは、農民には目が赤く充血している者、ただれ目の者が多く、原因として炊事や風呂、火鉢で受ける炭の煙や換気ができていないトイレの水蒸気等が原因と指摘している。ちなみに、フロイスの「ヨーロッパ文化と日本文化」では、「日本ではそれ(糞尿)を買い、米と金を支払う」と記述され、江戸時代では、糞尿は田畑の肥料として庶民の商取引・家賃減免システムに組み込まれる対象でもあった。糞尿を循環させる過程の中で、それが社会的に構築された循環システムから要介護状態が派生するのは何とも言えない皮肉である。
そのためだろうか、「武士の介護休暇 日本は老いと介護にどう向きあってきたのか」(﨑井将之 河出新書2024年)によると、江戸時代には、高齢者介護について、家族・地域で要介護高齢者を支える体制が作られ、「孝」「忠」倫理を幕府は流布し、「官刻孝義録」を編纂し、要介護高齢者を介護した者を善行者として表彰するというシステムが構築されていることも明らかにされている。また、1742年(寛保二年)江戸幕府は武士に対しては「看病断(かんびょうことわり)」という、親・妻子・祖父母・叔父・伯母を対象に、現在で言う介護のための休職を認める制度(父母については無条件で許可)を導入し、各藩でも導入が進んだことや、当主自らが実父のトイレ介助や便尿の排泄ケアを行っていた史料も明かしている。
高齢者介護自体が負担の大きい労働であり、介護全般や襁褓を当てたりする排泄ケアは、介護者個人が負うには見通しの見えない作業なのだ。それ故、「孝」「忠」という儒教的な倫理の奨励や当主自らが責任を持つ仕組みが為政者側から整備されてきた。(社会や一般庶民も同様に介護を行っていたということではなく、むしろ介護放棄や棄老が一定程度社会にあったがゆえに、為政者側からその防止措置として行われたとみるべきであろう。)
赤ん坊も高齢者の排泄ケアやおむつ、介護について言えば、排泄ケア・おむつの問題は、大きく言えば人間が栄養を口から取り入れ、肛門から排泄物として出すという生物として基本的な循環サイクルの中の重要な構成要素の一つであり、おむつとは便尿汚染を吸収し包み込むことで可能な限り流失を防ぐことで感染症の蔓延を防止する公衆衛生的な機能を持つものであったと言える。さらには、発達保障や社会道徳の維持の機能を持つ、公衆衛生にとどまらない多面的な目的を体現するアイテムだったということだ。一般の庶民は、前近代において、様々な試行錯誤の上、おむつを生み出し、為政者は介護の課題に対して意識せざるを得なかったことを示している。近代以降、日本社会や政府は、より意識的にこれらのアイテムや課題を社会的に支え合っていくシステムを成長させるべきであった。しかし、歴史はそうならず、母親・家族のみの負担を求める方向に向かった。まして、現場でケアをし、おむつを交換するのは母親や家族・身内が引き受けなければならないとしても、個人的な行為としてコストまで引き受けなければならないことまでも当然視されたのだ。近代・現代と個人の意思の尊重、個人の権利の確立といった人権思想の深化の陰に、やはり、子育てや介護と言ったケアをシャドウワークとして女性に役割を押し付けた影の部分が残されてしまったのではないか?おむつの自己負担でここまで述べることになるとは思わなかったが、なにやら暗い気持ちになってしまった。子育てや介護を社会的に支えるというのならば、「おむつの自己負担」について、そろそろ認識を改め、おむつについても公的な保障を行うシステムを考えてみる必要があるのでないだろうか?
*「赤ん坊のおむつを自分で用意するのが母親・家族の義務」という空気があるとすれば、それはなかなか巧妙な言説である。現在のシステムの中で、もしこの言説に反抗しようものなら、積極的な反論はないが、「そうは言っても、それぐらいあなたはできないの?」という共感しつつも消極的な非難がましい空気が周りから感じられるのではないだろうか?紙おむつ、人工ミルク、保育所等々、社会制度の深化や発明により、女性は子育てと社会で働くことを両立する選択肢を拡大してきた。「赤ん坊のおむつを自分で用意するのが母親・家族の義務」というのは女性にとって最後の鎖の役割を果たしているのかもしれない。この鎖を断ち切ることが、子育てをネガティブなものにせず、より女性の生き方の選択幅を広げることになるかもしれない。
*障害者へのオムツの前近代における使用実態についても文献で確認することは出来なかった。しかし、障害者ともなると、持っている障害によっては、自分で便尿汚染を自力で解決する身体構造でない場合もありえる。(それを負担と感じるのは、介護者の側である。障害を持っている方はそれが普通であるから。ろう者にとってこの世界は、耳が聞こえない世界ではなく、手話のある世界に過ぎないという視点と同じ問題である。)また、健常児のような便尿に関するモチベーションが働かない可能性も高いので、健常児のような自立プロセスを歩まない可能性は高い、しかし、自力排泄が困難な重心児が、親・介護者が根気よくおむつを交換したりする排泄ケアを続けていく中で、親や介護者がその行為をしようとしたり、自分の体の体調を察して、表情を返すようになった時に親や介護者には、見通しのつかない時間の中に、何か心を動かされる瞬間が生まれる時がある。重心児のケアが専門分野ではないが、知的障害を持つ方々を支援する仕事の中で、何度か同じような瞬間に出会ったような記憶はある。四十年近く仕事が続いてきたのはそんな瞬間をどこか信じているからかもしれない。