前回の投稿で、自閉スペクトラム症(ASD)について新しい知見も含めて伝えたいことがある旨を書いて稿を譲った。読者の中には、何をいまさらという感もあるかもしれないし、実際強度行動障害支援者研修を受講している方はASDについて学習しているのだからなおさらかもしれない。
最近、言語心理学や発達心理学をテーマにした文献を読みながら考えているのは、「話し言葉」の理解や「話し言葉」によるコミュニケーションが難しいと言われるASD聴児者の母語は一体何なのか、ASD聴児者はその母語をどのように身につけるのかというテーマだ。
先ず、Looker-onがこのように思った経緯から書き起こしておきたい。
きっかけは、日本手話とろう文化に関する講演研修を興味本位で受講したことに始まる。
Looker-onは、かねてから手話を習いたいと思っていたが、生来のなまけ癖もあり、きちんと習うことはなかった。ただ、基本的なこととして、手話には日本手話(世界的には、英手話、フランス手話、・・・と各国に手話がある)があること、日本手話は日本語と異なる言語であるぐらいの予備知識ぐらいしか頭になかった。日本手話は、日本のろう教育現場からは排除されてきたこと、我が国では歴史的には「手話法」と「口話法」という近代教育において、教育理論・教育理念の深刻な対立があったこと等々。(ちなみに、漫画「わが指のオーケストラ」は福祉の世界に入った時からの愛読書だ。)この程度は、知識として持っていたので、興味もあり受講させてもらった。
講義は、日本手話で話すろう者の大学教員が、スライドと手話通訳士によって日本語に訳して進められた。内容は多岐にわたるのだが、Looker-onの頭に特に残ったのは、以下のことである。(日本語手話を使用している、また接している方たちには常識的なことかもしれないが)
基本的なことから
「ろう者」の視点では、社会は「聴者」と「ろう者」に分けられる。「聴者」にとっては、聴覚障害者は「音のない世界」に生きているとなるが、「ろう者」にとっては「聞こえない」は障害ではない。「ろう者」は「ろう者」から見れば、日本の国土に住む言語的、文化的マイノリティ集団の一つで、彼らにとってこの世界は「音がない世界」ではなく「手話がある世界」でしかない。「ろう者」の90%が聴者から生まれる。「ろう者」から「ろう者」が生まれる確率は1割程度と言われている。当然、中途難聴者、失聴者も存在する。このように「ろう者」をめぐる家族構成やなる過程も多様であるが、それによって言語の種類も以下のように分かれる。
①日本手話が第1言語の人
②日本語対応手話の人
③文字(筆談)中心の人
④口話中心の人
日本語対応手話は、手指日本語とも説明され、日本語の文法や語順の通りに、単語を当てはめて表現する手段である。日本手話は、それとは異なり、手指動作と非手指動作(NMS、英: non-manual signals)を同時に使う、日本語とは異なる文法を持つ視覚言語だ。研修の講師によれば、日本手話(手話)は、手・顔・体を同時に動かす「同時性」の言語、日本語(音声言語)は、音を一つ一つ並べるように話す「線状性」(linearity)の言語であると特徴づけられた。
文章を図式化すると、視覚言語と音声言語の違いが鮮明となる。
例文:必死に勉強したので合格した
日本手話だと、頭の中では
必死 した(完了)
ので
勉強 合格
以上の要素が、手指動作と非手指動作で同時に提示され、認識される。
日本語だと、頭の中では
ひ-っ-し-に-べ-ん-き-ょ-う-し-た-の-で-ご-う-か-く-し-た
以上の音素が、時間に沿ってしか認知されない。発音器官の制限上,ヒトは同じ瞬間に異なる複数の音を発することができない.複数の音を出すには,時間に沿って順番につなぎ合わせるしかない。このように、音の流れを一つの線として理解して、認知される。
日本手話の同時性即ち手指動作と非手指動作の同時使用は、名詞の格変化に以下のような特徴を示す。
日本手話では、主格(私は)と所有格(私の)は同じ手指動作となっている。(日本語では、名詞の格変化はなく、“てにをは”の助詞で区別されている)
例文 「私と妹がハワイに行く」
「私の妹がハワイに行く」
は、手指動作だけでは、<私・妹・ハワイ・行く>となり、意味の区別がつかないのだが、<私>と<妹>の手指動作の間にうなづきの有無で、<私と妹>(うなずきあり)、<私の妹>(うなづきなし)と区別する文法が日本手話には存在する。
従来、ろう者が使用する手話は、「通常の身振り」の集合体に過ぎず、音声言語に基づかず、独自の文法体系を持たない劣ったコミュニケーション手段とみなされていたため、古くは、1880年のミラノ国際ろう教育会議(ICED)では、ろう教育において手話よりも口話法(音声言語と口の形を読むこと)を全面的に支持・採用し、教育現場での手話の使用を禁止する決議(ミラノ決議)が可決され、口話主義に傾斜していったのはこうした手話観があったからである。
しかし、1960年ウィリアム・ストーキー(1919-2000)は、Sign Language Structure: An Outline of the Visual Communication Systems of the American Deaf(手話の構造:米国のろう者の視覚コミュニケーション方式の概要)を発表し、ひとつの手話単語は、手型(dez)、位置(tab)、動き(sig)という三つの別々の言語要素に分解できるとし、「手話は世界中の音声言語で見られるのと同じように、それ自身が機能的で強力な独立した構文と文法を持つ、精緻で成長している自然言語だ」と結論づけた。こうした手話観の転換もあり、2010年聴覚障害教育国際会議(ICED)実行委員会および、ブリティッシュ・コロンビア州ろうコミュニティにおいて、バンクーバー2010「新しい時代 : ろう者の参加と協働」が採択され、口話主義は否定された。
*ちなみに、1880年ミラノ決議を受け、日本では1933年全国聾学校校長会議における鳩山一郎文部大臣による訓示以降、日本において口話法による教育が国策として推し進められ、手話は排除されていった。「わが指のオーケストラ」はこの時代背景をもとに描かれてる。
*1980年代初頭、ニカラグアの学校に多くの聴覚障害児が初めて集められ、子どもたちは家庭で使っていた独自の身振り(ホームサイン)を持ち寄った。子ども同士は学校や遊び場でコミュニケーションを取る中で、それらが統合され、独自の文法や構文を持つ新しい言語へと発展し、ついにはニカラグア手話(NSL)と命名できるほどの新しい視覚言語が、自然発生的に完成した。こうした歴史的な事実は手話(視覚言語)が共通の語彙や文法を持った自然言語と発生していくことを示している。
日本手話と日本語を比較すると、ろう者側からは日本語という言語について興味深い指摘があった。
具体例を挙げると
聴者(日本語)「ちょっとそこまで行ってくる」「(食事や飲み会の誘いに対して)仕事があるので…(言外に断わっている)」という反応は、ろう者(日本手話)にとって「そこってどこなのか」と疑われたり、「つまり来るのか来ないのか」という反応を引き起こすことが多い。ろう者にとって、どうしてほしいか、どうしたいのか、をはっきり主張してくれないと分からない。
また、聴者(日本語)「(かっこいい、尊敬するという意味で)好き」と言われた場合、ろう者は「(恋愛感情として)好き」と受け止めてしまうことが多い。
等、視覚言語であるか故、日本語を言葉通りの認知で解釈してしまう点も指摘された。
つまり、日本語は、「空気を読む文化、言語」=高コンテクストな文化、言語であり、日本手話や英語は「言語を伝え合う文化、言語」=低コンテクストな文化、言語なのだ。
日本手話と日本語について基本的なことを整理してきた。言語コミュニケーションという観点で見れば、聴覚の有無にかかわらず、日本に生まれ、日本手話若しくは日本語取得者による育成環境で育った者は、日本手話か日本語を第1言語(母語)として身につけることになる。当たり前と思われるかもしれないが、この事実を「言語認知が難しい」と言われるASD聴児者に当てはめてみよう。簡単な例を挙げれば、エコラリアやオウム返しでの返答をしているASD児者は、その言葉を言語つまり日本語として認識しているから、エコラリアやオウム返しでの返答を返すと言える。つまり、ASD聴児者の第1言語(母語)は日本語なのだ。ASD聴児者はなんとなくであれ、日本語の語彙や文法を理解し、人が話す音のつながりを声として認知し、コミュニケーションするものと理解しているということを意味している。子どもが第1言語(母語)を認知するとは、大人が第2言語として外国語を学習するのとは訳が違う。大人の場合は、比較する第1言語(母語)をすでに身に着けているので、習おうとする外国語については、発音、語彙、文法等比較する骨格が成立しているのだ。第1言語(母語)の取得とは、そもそも言語というものを何も知らない白紙の状態から認知・発声・思考を第1言語(母語)で使いこなすことができるようになるという壮大なシステム構築なのだ。「言語認知が難しい」という抽象的な一文で片づけられるほど簡単ではないはずだ。
この点を考察するには、次に定型発達の聴児がどのように第1言語(母語)身につけていくかを見ておかなければならない。以下、母語の取得過程を以下の文献の知見をもとにまとめていく。
「赤ちゃんはことばをどう学ぶか」 (針生悦子 2019年 中公新書ラクレ)
「言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで」(今井むつみ 針生悦子 2014年 ちくま学芸文庫)
(言語体系を全く知らない自分が何をてがかりに言語を習得していくかを想像して読んでいってほしい)
先ずは聴覚からである。
胎児は、妊娠24週頃から、聴覚が働き始めると言われている。但し、子宮の中で膜につつまれ羊水に浮いているので、外部の音はかなり小さく、ぼやけているため、話している内容は分からない。声の高低(ピッチ)やリズムは伝わっているのだ。その為なのか、出産時、新生児は言葉のリズムに敏感な状態で生まれてきて、他の女性の声より、母親の声に関心を向ける、好むのである。第1言語:母親の言語が母語と呼ばれる所以でもある。生後8ヶ月ごろ、赤ん坊は発生音声から、音のつながりを、つながり方やリズムを「手がかり」に「単語」を確率的に見つけられるようになる。
例えば、母親が「マタミルクホシイノ?」と繰り返し尋ねると、「マタ / ミルク /ホシイノ 」と音のつながりから「ミルク」という音が聞き分けられるようになるようになる。大人で言えば、意味もスペルも分からない洋楽を何度も何度も繰り返し聞くことで、特定の単語がぼんやりとでも聞き分けられるようになる感覚であろうか。但し、この段階は、同じ単語でも別の人の声で言われたり、別の感情で話されると同じ単語と認識できない。生後12ヶ月ごろになると、母語において聞き分けに必要でない音の区別には鈍感になり、聞き分けに必要な音の区別にはしっかり反応するようになり、話し手が変わったり、話す調子が変わっても同じ音のつながりは同じ単語として認識される。この時期までの「単語」の取得は、「音素の遷移確率」(transitional probability)や「音素配列上の制約」(phonotactic constraints)や「強勢」という原理によって徐々に手探りで身につけるのだ。当然、覚える言葉は手探りで恐ろしく遅々たる歩みで語彙数も少ない。しかし、1才3ヶ月(生後15ヶ月ぐらい)となると、他者の話し言葉の助詞を聞き取ることや助詞は省略できる等名詞とそれ以外の区別は聞き取ることができるようである。
次に、発語である。
新生児は唇から舌にかけての空間(口蓋)が狭く固いため、呼吸をする音は狭くかたい口蓋を通過するので笛を鳴らすようになる。「オギャー オギャー」と泣くのは、単に泣いているのではなく、呼吸のリズムに合わせた音がホイッスル音として出てくるからである。出生後、口からのどにかけての空間や筋肉は成長発達し、口蓋空間も広くなり、舌等も様々な様態に動かせされるようになっていく。生後2,3ヶ月後から「オギャー」を脱して、リラックスした発声やクーイングができるようになり、4,6ヶ月に見られる「声遊び期」では、唇・舌・のどの操作力が向上するので、「アーアーアー(A-A-A)」と言った母音の繰り返し音から「バーバーバー(Ba-Ba―Ba)」「マンマン(Man Man)」といった子音+母音音節の繰り返し音(基準喃語)を発するようになる。そして、手渡されたモノを口に入れたり、熱中する時期(「私とモノ」の世界 生後6ヶ月頃)、指さし期(「私ひとり」の世界若しくは「私とあなた」の世界 生後7,8ヶ月頃)を経て、他人に向かってモノを差し出したり、他人がもらおうとしても手放さない、モノのやり取りを続ける等他人の反応に興味を持ち始め、「私ひとり」の世界から「私とあなた」の世界と「私とモノ」の世界がつながり始め(9,10ヶ月頃)、1才頃には初めて見たモノ」や状況に対して、どうふるまったら迷う時に、一緒にいる人の様子や反応を見て参照するという社会的参照とも言える行為を取るようになるのである。そして、ついに「単語」を話し始めるのだが、この時期はまだ単語の意味が広すぎたり、限定的であったりと意味が確定していない。「ワンワン」と言っても、家で飼っている柴犬しか指しておらず、隣に飼われているチワワはワンワンと呼ばないといった類いである。しかし、1才半頃には、社会的参照はかなり定着し、相手の視線をしっかり追える、相手が見ているモノを確実に見る、場合によっては後ろを振り返ることができるようになるのである。
そして、1才が終わる頃、「ブーブーきた」「パパイナイ」と言った二語文を電文体発語(telegraphic speech:助詞、英語ならば冠詞等の機能語が脱落省略された文体)で話せるようになるのだが、この時期をまたぐ1才半から2才半頃に幼児は「語彙爆発」(vocabulary explosion)と呼ばれる語彙を爆発的に覚えていく時期に突入する。これは「語」の意味が分かる時期ともいえる。つまり、その「語」が発語された状況の中のどの部分を指すのか(指示対象の切り出し)、その「語」がどのような基準で般用されるべきか(般用基準)が理解されていることを指す。子どもが自身でモノ(物体)をカテゴリーとして把握する、モノと名前の即時マッピングができるようになるのだ。つまり、チワワ、ダックスフンド、ブルドック、隣のワンワンは「イヌ」というカテゴリーで把握理解することを意味している。これを、日本語においては「基礎レベル」のカテゴリーとするのだが、子どもはこのレベルのカテゴリーを理解して、モノをカテゴリーに分け、そのカテゴリー間の関係性(排他的なのか、包摂関係にあるのか、階層性があるのか)を組み立てていく。この時、子どもは以下のメタ知識を理解するから、モノに名前を即時マッピングできるようになると現在では考えられている。
①事物全体バイアス=モノにつけられた名前を色や素材ではなく事物全体の名前と考える
②事物カテゴリーバイアス=未知の語を聞いたら、固有名詞(世界に一つしかない特定の個体の名前)ではなくカテゴリー名と考える
③形バイアス=語は形が似ているモノに般用する
④相互排他性バイアス=モノの名前(カテゴリー名)はただ一つと想定している
また、このバイアスを成立させる為に、以下の「推論」が理解されていることも必要だ。
①統計分布の推論=外界で生起する事象を確率分布で予測する(数多く起こることは起こりやすいと考える等)
②対称性推論=A→B ならば おそらく B→A (ウサギは白い耳の長い動物 ならば 白い耳の長い動物はウサギ)
③帰納推論(発想推論)=相関関係のある二つの事象があれば、どちらかが原因でどちらかが結果と考える(仮説形成)
*興味深いことに、対称性推論をチンパンジーはしないという観察報告もある。
こうしたメタ知識(バイアス・推論)が成長過程で発達し始めるのが、1才半頃からであり、子どもはそれまでの音素の確率論的把握からバイアスや推論を駆使し始めて、語彙を飛躍的に増大させ、カテゴリーによる世界の秩序や階層性・関係性を作り出していくのである。
ここで興味深いのは、モノの名前には、基本となる「基礎レベル」の名前(例:イヌ)に対して抽象度の高い「上位レベル」の名前(例:動物)、「下位レベル」の名前(例:チワワ、ダックスフンド、ブルドック、柴犬…)以外に、固有名詞(世界に一つしかない特定の個体の名前 例:人名、地名、・・・)そして、モノに対して「物質」(モノの素材 例:粘土、鉄、酸素・・)と分類される。発達言語学では英語と日本語について、「名詞」の意味推論を行う際の相違を以下のように考えている。英語が母語の場合、2才あたりからバイアス以外に、機能語としてある冠詞(a , the)や複数形と言った文法的な手がかりを聞き取って、固有名詞と普通名詞を区別したり、可算名詞や不可算名詞がつくかつかないかでモノと物質を区別したりすることができる。文法構造が意味推論しやすい構造をとっているのである。(名詞の各変化も手がかりになっているかもしれない)
しかし、日本語が母語の場合、冠詞や複数形への変化といった文法的な手がかりは持っていないにもかかわらず、言語爆発までにすでに固有名詞・普通名詞・物質の区別をつけていると報告されている。(この点、Looker-onの見解は後述)
名詞の次は、動詞・形容詞についてである。
名詞すなわちモノの名前は、時間的にも、空間的にも、環境から切り出されており、境界は明確であるが、動詞は、モノどうしの関係を指示する、すなわち「動作」を表す言葉である。「動詞」を認識するためには、一連の連続する動作の流れから、その動詞が対象とする動作の始まりと終わり(時間軸上の境界)を切り出すことができなければならない。例えば、「振りかぶって、投げる」という動詞のつながりは、どこまでが「振りかぶる」でどこからが「投げる」と認識される必要がある。また、基本的には、主語・目的語が名詞として存在しないと「動詞」は成立しない。
赤ん坊は、生後10ヶ月頃には、動作(イベント)をいくつかのまとまりに区切って認識できるようになるようである。例えば、「タオルを拾ってタオル掛けにかける」という動作を、「タオルを拾う」「タオル掛けにかける」と分割できるとされている。このように分割できるようになるには、行為者の意図を読み取る力や運動そのものを知覚できる力が備わっていなければならない。生後10ヶ月頃に徐々に「私ひとり」若しくは「私とあなた」の世界と「私とモノ」の世界がつながり始める時期にこうした力が芽生え始めると推察できるだろう。
「A(主語)がV(動詞)している」場面(自動詞)や「A(主語)がO(目的物)をV(動詞)している」場面(他動詞)いずれの場面でも、3才の段階では、動作主体(A)がはっきり見えていても、「動作」だけを動詞に対応させることには積極的ではない、目的物が異なると同じ動作でも、同じ動詞を適応することはできない。一つ一つの「動詞」が使われた具体的な状況と対応付けの事例を時間を掛けて蓄積して、般用基準が適応できるかを探っていく中で、5才頃になって、動作主体や目的物が変化しようと、同じ動作には同じ動詞を適用できるようになるのだ。再び、英語と日本語で動詞推測について比較すると、英語は文法構造や語順(S+V S+V+O S+V+O+O)が定型化しているので、各項や動詞の意味を推測しやすい。一方、日本語は文法構造やそれによる語順が、順番が入れ替わったり、省略されたりすることすらある。むしろ、言葉につながっている助詞で、各項や動詞の意味、ひいてはその場面の背景すら推測することもある。
「ごはんを食べた。」
「ごはんは食べた。」
「ごはんも食べた。」
たった一語のひらがなであるが、1番目の文章は標準として、ごはんを食べる事実を述べているだけだが、2番目はごはんとそれ以外の食べ物もある中でごはんだけを選択して食べたという場面を推測させ、3番目に至っては、ごはんとそれ以外の食べ物もある中で、いつもはごはんを食べないが、今回はごはんをあわせて食べたという背景を推測させる。日本手話との比較の箇所で述べたように、日本語は高コンテキスト言語な所以がここにある。こうした高度な意味背景の理解は、Looker-onは日本語の言語自身の構造と言うより、その外にある言葉を教えていく養育環境(例えば、母親や大人との会話)や生活環境において様々な場面にふさわしい言葉の紡ぎ方を教育されたり、体験したりする中で身につけるのではないかと推測している。(こう考えると、日本語使用場面の場面対応における教育が「空気を読む」能力を開発することにつながっているのかもしれない)
また、最新の脳研究においては、「単語」の意味を想起するだけで、その単語と関係する感覚を処理する脳部位が同時に活性化することが、PET・fMRI検査によって確認されている。例えば、色を具体的に想起すると視覚野が、道具の名前を想起すると運動野が賦活する。語彙を増やすということは、語彙をめぐって脳内に複雑で分散したネットワーク回路が構築され、意味の深化に伴って絶えず更新されていくことでもあるのだ。
さて、ここまで、発達言語学の成果に基づいて、定型発達をする赤ん坊が母語を獲得していく過程を詳述してみた。ASD聴児者の独特の言語活動は、この獲得過程がいかなる障害の影響を受けることによって生じるのだろうか?これを探索するには、抽象的な「言語理解が困難」という特性で片づけるのではなく、理解困難ではあるが、ASDに対する最新の医学的知見をかじっておく必要がある。
今年2026年3月に、理化学研究所・東海大学・神戸大学の研究グループが、多様なASDモデルマウス等を使った実験で、共通する普遍的な発症原理を解明したことが報告されている。
内容は要約すると、
ASD発症には1,200以上の関連遺伝子に加え、母胎の感染や薬剤曝露などの環境要因、さらにそれらが誘起するエピゲノム変化(DNA配列を変えずに、DNAメチル化やヒストン修飾などを通じて遺伝子発現を調節する仕組み)が複雑に関与するなど要因が多岐にわたっていることは解明されている。その一方で、症状が2〜3歳頃から明白になることから、「胎児期から新生児期にかけての脳発達の変容」に共通の根源があると推定されてきたが、今回の研究の意義は、この普遍的な発症原理を突き止め、中核症状に対する根本的な治療法を確立する方向性が見いだせたことにある。
東海大学レビュー https://www.tokai.ac.jp/news/detail/1001_notch.html
理化学研究所レビュー https://www.neurochemistry.jp/topics/8636/
具体的には、
複数の自閉スペクトラム症(ASD)モデルに共通する病態として、胎生期の脳における「Notch(ノッチ)シグナル伝達系」の過剰活性化が認められ、この過剰活性化により、未分化の神経幹細胞が、VIP陽性抑制性神経細胞への分化が選択的に妨げられ、そのため、社会性障害などの中核症状が引き起こされることが認められた。そして、胎生期にNotchシグナルを阻害するNotch活性阻害剤を投与することで、成長後のASD様行動が劇的に改善することも確定できた。
この意味を分かりやすく整理すると、
Notchシグナルは、細胞間の物理的な接触を必要とする近距離間でのシグナル伝達経路の一つであり、発生過程の様々な組織構築過程において細胞の増殖や分化など細胞の運命決定に関与している機能である。このシグナル伝達系が適切にシグナルを伝達することで、神経幹細胞は正常な分化を遂げるのであるが、過剰活性つまり常にONの指令を出し続けることにより、抑制性介在ニューロンの一種であるVIP陽性抑制性神経細胞への分化が選択的に妨げられ、VIP陽性抑制性神経細胞が大幅に減少している神経構造になっていく。抑制性介在ニューロンとは、多くの場合 GABA を放出し、局所回路の発火タイミング、入力選択性、同期、脱抑制を調整するニューロンであり、その中でVIP陽性抑制性神経細胞(VIP-INs)は、脳内で神経の働きの「強さ(ゲイン)」を調節する抑制性の神経細胞で、役割の一つとして、不要なノイズを抑えながら、感覚情報を適切に伝える役割を担い、情報処理の精度を高める役割があるとされている。つまり、VIP陽性抑制性神経細胞(VIP-INs)が大幅に不足することにより、本人の意思に関係なく、感覚情報が大脳に伝達される際に、不要なノイズが混入してきたり、感覚情報が実際のレベルより過剰に増幅されたり、過剰に減衰したりすることが起こっていると言える。GABAは脳のシナプス刈込(脳の発達過程で必要な神経結合を強化し、不要な結合を除去する現象)神経回路の剪定とも言える現象をコントロールする。VIP陽性抑制性神経細胞(VIP-INs)の大幅な減少は、GABAを少なくするので、シナプス刈込は抑制されることとなり、これは視覚・聴覚・触覚等の感覚が独立して情報を処理できず、ごちゃ混ぜで各感覚が混ざり合ったり、隣接する神経回路を巻き込む(同期)ことが起こる、一種共感覚状態が生じる可能性を示唆している。(抑制性神経伝達物質GABAが脳のシナプス刈り込みを制御する | 東京大学)
*Looker-onはこの記事を読んでいた際、現在すでにASDモデルマウスが作られて研究解析が行われていることに正直衝撃を受けた。
バルプロ酸曝露モデル:バルプロ酸(VPA):抗てんかん薬や気分安定薬として使われている一般的な薬であるが、一方で、妊娠期に服用した場合、胎児のエピゲノムに影響を及ぼし、脳発達に悪影響を与える危険性があることが報告されている。その知見を踏まえて、バルプロ酸曝露で作成したモデル
母体免疫活性化(Maternal Immune Activation:MIA)モデル: 妊娠中に母親がウイルスや細菌などに感染し、免疫反応が過剰に活性化された影響が胎児の脳の発達に及ぶ可能性があることが知られている。その知見を踏まえて作成したモデル
インターネットで検索していたら、日本薬学会環境・衛生部会にASDが発症する環境的要因について、以下の記事が見つかった。自閉スペクトラム症に関連する環境要因(東京薬科大学薬学部 篠田 陽)が参考になる。しかし、この記事を読むと、両親の高齢や早産なども挙げられており、ASD児の出生率の問題は、高齢出産・出産環境の悪化等と表裏一体であるような印象を受ける。また、「百日咳ワクチンや破傷風ワクチンなどのワクチンに含まれる保存剤の一つである有機水銀化合物(チメロサール)曝露もASD発症との関連性は認められていません。」と公式に否定されているのを見ると、某国の厚生行政の責任者が、ASDの原因は水銀だと主張していたのを思い出してしまった。
東海大学と理化学研究所の研究仮説から導き出される情報伝達への不要なノイズの混入、感覚情報の過剰増幅・過剰減衰・混線は、ASDの様々な特徴を説明する際、合理的に説明できる部分が多いように思われる。
触覚等五感の過敏さ/鈍感さや身体図式の不安定さ
皮膚、関節を中心にした固有覚に対して、不要なノイズの混入、感覚情報の過剰増幅・過剰減衰・混線が起こることによって、五感にノイズや感覚の増幅減衰が行われることとなる。また、固有覚もぼやけたものになりやすい為、身体図式が明瞭に感じられないこととなる。こたつに足が入ると足の存在がなくなるというASD当事者の発言は、身体図式の曖昧さを視覚で補っていたからともいえる。
と説明仮説が立てられる。
視覚に関する様々な特異性は、本人に制御ができない不要なノイズの混入、感覚情報の過剰増幅・過剰減衰・混線がある場合、本来は取捨選択される視覚情報がまるで4K画像のように詳細に脳に飛び込んでくる可能性を示唆する。また、思いもよらぬ部分に注意が向いてしまうのも、その部分の情報が過剰に増幅された結果かもしれない。特異な視覚特性がある一方で、人の顔が直視できない行動をどのように理解すべきであろうか?
これまた、インターネットで検索をしていたら、次のような興味深い論文が見つかった。
サイエンティフィックアメリカ誌に掲載されたWhen Our Gaze Is a Physical Force Research documents a strange illusion(我々の視線が物理的な力になる時 不思議な錯覚に関する調査記録 2020年12月29日)(https://www.scientificamerican.com/article/when-our-gaze-is-a-physical-force/)やPNAS(the National Academy of Sciences :全米科学アカデミー)HP掲載論文
Implicit model of other people’s visual attention as an invisible, force-carrying beam projecting from the eyes(他人の視覚的注意について、目から放射される、見えはしないが力を運ぶ光線として隠然と模すること 2018年12月17日)(https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.1816581115)という二つの研究論文によると、人間は他人の視線を何らかの物理的な力を持った光線と暗に感じていると論証されている。健常者ではよほどの時しか意識されない感覚情報であるが、感覚情報の過剰増幅がある場合、この光線感覚が強く感じられ、危険や恐ろしさを感じるのではないかと推察される。
記憶のフラッシュバックや本人にとってネガティブな体験がトラウマとして残りやすいのは、体験を記憶する際、感覚情報の過剰増幅・過剰減衰・混線によって、細かい周囲の様々な感覚情報も一緒くたになって丸ごとセットとして記憶され、長期記憶な中に記憶されるからという仮説が成り立つ。そのため、生々しく記憶が呼び起こされことになるのではないかと仮説立てられる。いずれにせよ、長期記憶・短期記憶(ワーキングメモリ)にも些細な周辺情報やのノイズを含んだ健常者が記憶するよりも膨大な情報が流れ込むため、脳に過大な負荷をかけ疲労を引き起こす、オーバーフローの状態になり、一時的な記憶保持やマルチタスク的な処理はアップアップになると推測される。
こうした特性から、ASDにとって必要なのは、sensory dietとでも言うような感覚情報の制限、減量化を図ってノイズや過剰増幅のリスク負担を少なくすることとなる。ワーキングスペース等の視覚化・構造化やスケジュールの視覚化は、本人にノイズや過剰増幅による混乱を避けるための情報提供にすぎない。しかし、それであっても、色分けや図式の感覚情報が過剰に脳へ流入し、新たな混乱や葛藤を生み出すリスクについても考慮する必要があると思われる。また、本人に本人の意思では制御できないノイズや情報の増幅減衰があることを自覚してもらい、それに対する物理的な防衛(例えば、イヤーマフ等を着けるといった物理的手段)や最終的には自分なりの心構えや危機回避方法を身につけてもらうことを目指してもらうのが妥当と思われる。
そのためには、ASD聴児者が専門家や支援者と適切にコミュニケーションが取れることが必要となる。そのために必要なのは、母語理解・母語取得(音声会話ができるようになるという意味ではない)となる。
聴覚情報に対する不要なノイズの混入、感覚情報の過剰増幅・過剰減衰・混線は母語取得にどのような影響を及ぼすのだろうか?先ほど詳述した、生後24週頃から聴覚情報の取得は、ノイズの混入・過剰増幅減衰により、母親の声のリズムについて把握は困難となる。出生後、手がかりとなる母親の声のリズムも不確かな中で、周りの大量の音から母親や人間の「声」を聞き分け、その声と認知できても、その声の音素を聞きとり、塊となる音素を聞き取らなければならないのだ。さらに、塊となる音素を聞き分けられるようになっても、話し手が変わったり、話す調子が変わったりした場合、塊となる音素は誰が発しても同じであることを認知できるようになるのも健常児より途方もない経験をしなければならないのを想像してしまう。聴覚情報に対する不要なノイズの混入、感覚情報の過剰増幅・過剰減衰・混線を抱えるというのは、例えていうならば、雑音が入り、音量も不安定なラジオから流れてくる声を頼りに日本語や英語を白紙から身につけようとするようなものである。ASD児が、母親が話しかけても声に反応しないのは、そもそも音や声として聞こえているのか、さらにはそれが自分に向けられた音や声と認知できているかというレベルにまでさかのぼる。もしわからないまま、例えば、風の音や木々のざわめきがASD児の聴覚に常時入り、ASD児がその自然現象の音に塊となる音素を見つけてしまったら、そしてその音素を確率論的に把握し、「意味」や単語を見出してしまったら、母語は風や木々が出す音となる可能性すらありえると考えるのは妄想だろうか?
こうして考えると、ASD聴児は、不要なノイズの混入、過剰増幅・過剰減衰・混線した音サンプルを収集し、「音素の遷移確率」(transitional probability)や「音素配列上の制約」(phonotactic constraints)や「強勢」という原理を用いて、「単語」を見つけ出していくという作業は途方もなく、Looker-onから言わせれば奇跡のような出来事ともいえることを行っているのだ。周りの養育環境は言うまでもなく、本人の粘り強いサンプリングの努力の賜物だ。ASD聴児者が健常聴者と同等の日本語母語取得をできるようになるのは、健常者以上の根気や高度な知能(メタ知識としてのバイアスや推論規則の駆使)が求められるし、「私とモノ」「私とあなた」の世界線を丁寧につないでいく支援が必須と言える。(これだけの高度な知能は、ギフテッドと呼ばれても当然と言える)
視覚支援カード・絵カードは日本語母語取得の補助手段の教材という役割を担うべきであって、カードがコミュニケーションの唯一の手段と考えるべきではないと思われる。ASD聴児に対して適切な教育方法を用いて、母語取得でつまづくポイントに対しての支援を行えば、ASD聴児は日本語を母語として取得できる潜在的能力を発揮できるはずなのだ。
ポイントは、新生児期の音素取得時期の支援の在り方(正しく、声に関心を向けさせる。声を音素のつながりとして聞き分けられる。誰が言っても単語は同じものを指す。といった体験を身につけるカリキュラムの開発)や1才半以降のメタ知識としてのバイアスや推論規則の取得、「動作」の分割認知の方法、電文体発語期に様々な場面での体験学習での助詞の取得の仕方といったところであろうか。教育学者の方、発達言語学者の方から見れはなはだ漠然とした、素人考えであるが素描してみた。
「ASDは言語理解が困難だ。だから、視覚支援」という論調や現状使用されている視覚支援の用具は、実は日本語の文脈を暗に前提にしているにもかかわらず、日本語母語取得の可能性を奪うことになってはいないか、日本語文化・社会への包摂、豊かな情操を身につけていく契機を奪っていないかと危惧してしまうのだ。
長々と考察と思考実験にお付き合いいただき感謝したい。
*医学的なこと、発達言語学的なことについて間違いがあるかもしれないので、批判を忌憚なくお知らせください。